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【軍需利権に侵される『平和憲法』】 |


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NHKニュース 2004.4.24 朝7時のニュース
沖縄戦 旧日本軍が警察に指示
この資料は、沖縄戦の最中にアメリカ軍が旧日本軍から押収した文書を英訳したもので、神奈川県の関東学院大学の林博史教授がイギリス国立公文書館で入手しました。文書には、警察官に対する指示が7項目にわたって記載され▽「敵の占領地域に潜入し、状況を偵察すべし」とか▽「国民を利用して敵の幹部を暗殺し混乱に陥れよ」などと軍の作戦に協力するよう指示しています。さらに「敵に協力する者を見つけたら殺すか、適当な処置をすべし」とアメリカ軍に協力する住民を殺害するよう指示しています。沖縄県警察史によりますと、沖縄戦当時、県警察は、県庁の一部門としてけがをした住民の救護や避難誘導にあたり、軍への協力としてはスパイの取締りなどを行うことになっていましたが、警察に軍の作戦に加わるよう指示した文書が見つかったのは今回が初めてです。林教授は、「旧日本軍が軍属でもない警察を作戦に組み込もうとしていたことがわかる注目すべき資料だ」と話しています。
『沖縄タイムス 』2004年4月25日 朝刊
警察官に住民殺害指示/旧日本軍文書の英訳資料
関東学院大・林教授入手
沖縄戦当時、旧日本軍が警察官に対し、米軍に協力した住民の殺害などを指示した文書の英訳資料が二十四日までに明らかになった。同文書は、旧日本軍文書とみられ今年三月、関東学院大学の林博史教授がイギリス国立公文書館で入手した。文書には、軍への協力のほか、ゲリラ戦など戦闘への参加も指示している。林教授は「旧日本軍が警察を作戦に組み込むことで、住民の戦争への動員や住民虐殺に利用しようとしていた実態がうかがえる。戦争における警察など行政組織の役割をきちんと明らかにしていく必要がある」と話している。
文書は、警察官に対する七項目の指示を記載している。敵占領地域にいる住民については「秘密裏に捜査を行うべし。もし敵への協力者を発見すれば、殺すか、他の適当な処置をすべし」と米軍に協力した住民を殺害するよう指示している。
また、「変装した警察官や民間人から選抜した密偵は、敵の占領地域に潜入し、状況を偵察すべし」「敵の掌中にある国民を利用して敵の幹部を暗殺し、敵陣営を混乱に陥れよ」などと軍の作戦への協力を指示。
資料は米第一〇軍司令部が一九四五年六月十九日付で作成した旧日本軍文書の抜粋。米軍から情報提供を受けた英陸軍省文書の中から見つかった。日本軍文書の現物は見つかっていない。
文書の内容などから、米軍が上陸した四五年四月から六月にかけ、旧日本軍あるいは警察組織が作成したものとみられる。
林教授は文書の内容や沖縄戦の状況から、北部地区を対象に出されたと推定している。本島北部では、翼賛壮年団を中心とした「国士隊」が結成され、住民をスパイ視した虐殺・虐待事件との関連が指摘されている。
林教授は「住民虐殺では、軍が米軍に保護された住民を特定して殺害しているケースもある。文書にあるように、警察官や一部の住民による軍への協力が、住民虐殺などにつながっているのではないか」と指摘する。
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平和憲法の下で堅持されてきた「聖域」を侵す。
米戦略への関与を深める小泉政権の安全保障政策を色濃く反映したものともいえる。
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昭和軍需利権暴走の成れの果て=日本皇軍の自国民虐殺・沖縄
「主陣地ノ構築ヲ第一ニ着手シ偽陣地前進陣地海岸陣地ノ順ニ構築ス主陣地以外ハ成シ得ル限リ土民ヲ利用ス」
独立混成第15連隊 第2大隊本部陣中日誌・西地区守備隊主陣地構築要領(土民とは沖縄県民を指す)
米軍が沖縄本島に上陸して間もない1945年(昭和20年)4月9日、日本軍から一通の命令書が出された。
「爾今軍人軍属ヲ問ワズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」。この命令書によって、日本兵は沖縄住民に対して数多くのスパイ容疑、拷問、虐殺を加えた。
標準語を話せないのが一般的であり、わけても老人、こどもたちが多かった洞内の逃げ場では、この命令書は住民を背後から銃剣で突き刺すような日本兵にとって、処罰のための格好の口実となった。こうした「県民スパイ」視の根底には、日本軍の沖縄への潜在的な差別意識があった。
渡嘉敷島の”集団自決”
西山への避難命令が下り、母が弟をおんぶして、私は
妹の手を引いて足を引きずるようにして登っていきました。
突然、村長が「生きていても、みんなウランダー(外国人)
に目を抜かれたり、鼻をもぎ取られたりして残酷な殺され
方をする、いさぎよくこの場で死んでしまおう」と叫びまし
た。A巡査が、全員に手榴弾を配り、「天皇陛下万歳」と
3回繰り返して信管を抜くと「バーン、バーン」と弾が爆発
しました。手足を失い、うめき苦しむ人、バラバラになった
死体、頭の吹き飛んだ人など、まさに地獄絵図でした。
私の家族も親戚と円陣を組んで座り、伯父が信管を抜き
ました。ものすごい爆発音がしました。私は奇跡的に助か
りましたが、伯父は胸が真っ赤に染まり、皮と肉が全部飛
んで骨だけになっていました。伯母が抱きかかえていた2
歳になる乳飲み子は、頭が吹き飛ばされていました。
(安座間 豊子 当時12歳)
朝鮮からの強制連行
戦線の拡大にともない、当時、日本の植民地支配下にあった朝鮮半島では、日本での労働力不足を補うために徴兵・徴用として多くの人たちが強制連行された。1940〜45年の間に日本に連れてこられた朝鮮人は120万人余りで、沖縄戦にも1万に余りの朝鮮人が送られ、戦争の犠牲者となっていった。強制連行された人々は、日本軍による人権を全く無視した強烈な民族差別の中、家畜同様の扱いを受けた。さらに、言葉のわからない異国の地で戦火にさまよう二重の苦しみを味わった。
日本軍による虐待行為
朝鮮人軍夫は沖縄各地に配属され、壕堀や弾薬運搬など危険できつい労働を強いられた。口にできるものは一日一杯の水ガユなどわずかな食料だけで、多くの朝鮮人痩せ衰え、病気や栄養失調などで倒れていった。また、極度の空腹をしのぐため、食料の略奪や逃亡をするものもでてきた。そのため彼らの中には、「スパイ容疑」や「逃亡未遂」「食料統制違反」など、見せしめとして銃殺されるものもあった。
証言
今でも忘れられないことがある。ある日、あまりにかわいそうなので朝鮮人軍夫にオカラと芋を混ぜた馬糧の中の芋だけを拾って食べさせた。(そんなものしか与えられなかった)。ところが、これが班長にばれた班長は軍夫を並ばせ、「今食ったものを全部吐き出せ!」と命令した。軍夫たちは口に指をつっこんで、無理に吐き出した。それにいく粒かの麦が混じっていた、すると班長は、「おまえらおそれ多くも皇軍の食料を吐き出したな。誰がそれまで吐き出せといったか。粗末にするな拾って食え!」と怒鳴った。軍夫たちはしかたなく、麦粒を拾って食べた。すると班長は「誰が余分に食えといったか。余分に食ったものを出せ」と命じた。これを何度も繰り返していた。
(「強制連行虐殺調査団報告書」より 富村氏)
従軍慰安婦
強制連行されたのは男性ばかりではなく若い女性達が「慰安婦」として戦場へと送られた。沖縄でも一個中隊に6、7名の女性が従軍していた。 彼女たちは日本軍の慰みになるばかりではなく、壕などでは危険な入り口付近に追いやられた。そして戦況が悪化して軍隊が撤退すると、食料も与えられず戦火のまっただ中に放り出され、銃弾の犠牲となっていった。また戦後終了後助かったものも、駐留する米軍に利用されるケースも各地で見られた。終戦後の彼女たちの行方、生存の有無はいまだにほとんど明らかになっていない。
証言
この女性達はみな20代(一人だけ19歳)だった。1944年9月頃、古賀隊と一緒に来た。「南風荘」というクラブを作って住まわされた。午前中は雑用、糧秣運び、それに壕堀、材木切りなどもさせられ兵と同じように働かされていた。そのうえ、昼の12時からよるの12時頃まで全部隊(日本将兵300名)の相手をさせられていた。昼は兵、夜は将校だった。札を持った兵隊たちが列をつくって並んでいた。(中略)酒を飲むといつも「死ぬ」といっていたのは、アケミという23歳の人だった。演芸会などがあるとこの人は、よく朝鮮のうたをうたっていたが、そのたびに涙を流していた。悲しい歌でみんなもらい泣きした。本島に帰ってからハルミとコユキという人が死んだと聞いている。コユキさんはタマにあたって死んだと日本兵から聞いた。
(「強制連行虐殺調査団報告書」より 兼島氏)
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