プロの学生への道

職業欄に胸を張って『学生』と書けてしまう私の学校変遷記っす。(^_^;)


Temple U Japan
U of Wisconsin 大学
U of Wisconsin 大学院
それ以降

所沢の片田舎小・中学校を経て、浦和の片田舎にある カトリック系の女子高校を卒業した私は、現在も存在するらしい テンプル大学日本校Temple University Japan) の教養学部に入学いたしました。この学校はアメリカ東部ペンシルバニア州 フィラデルフィアにあるTemple Universityの海外分校で、先生方はアメリカの 大学で教えている教授達がそのまま日本で同じような授業をするというもの。 学生も高校での留学経験者や帰国子女、海外からの日本駐在子女(?)なども 散りばめられているようななんとも不思議なメンバーが揃っておりました。 この学校は今でもずっと4年間日本に在籍しても卒業ができる唯一のアメリカの 大学じゃないかな。でも、もちろん文部省の認定下の学校じゃないので、 なんと電車の定期券が通勤定期だったんです。今はどうなってるか知りませんけど。キャンパスも移転したと聞いています。
この時が、英語以外の授業も英語で受けるという出発点になりました。 それ以来、学校はずっと英語ですね。やっぱり、苦労しましたよ。 初めは数学を取ったので、それは割と楽でしたけど(アメリカの大学数学 上級レベルは日本の高校レベルから始まります)、他の授業は宿題まともに やってるより、辞書引いてる時間の方が長かったんじゃないかと思います。 読んでからじゃないとできない宿題が多かった上、読まなくちゃいけない量が やたらと多くてね。高校の時は徹夜なんてしたことなかったけど、大学入って 初めて経験しました。あと、日本にあることで、ついつい大きな本屋さんで 訳語本を探しちゃうんですよ。この頃はまだ英語と日本語の表現の違いとか あんまりわかってなかったのでとにかく意味さえわかりゃいいんだ、 ていうので必死でした。地学だかの授業で使っていた本の訳が 見つからなかった時はもう何だかわけがわからなくて半べそかきながら 試験を受けていたような気がします。面白かった宿題は確か Kingston先生の 歴史の授業で、戦争経験者を二人探して、インタビューしてくるというもの。 私はうちの祖父と高校で歴史を教えて下さった教頭先生にインタビューしました。 祖父の方は電話でインタビューし、教頭先生の方は1時間ぐらい録音しながら お話を聞き、うちに帰ってからそれを英語に直して提出。この先生は 東京出身で、戦後、実際(野次馬で)マッカーサーを見に行ったんだそうです。 「格好よかったよぉ!」と嬉しそうにおっしゃっていました。祖父の方は、 あまりに田舎だったので、あんまり戦争の影響を受けなかったとのこと。

アメリカの大学システムは専攻を初めから提出しなくてよいので、入学して いろんな教科を取ってから決めることができます。TUJでは私も専攻未決定で 教養科目を取りながら1年半弱勉強しました。そして、2年生後期から アメリカのウィスコンシン州にあるUniversity of Wisconsin-Madisonに転校 したのです。



TUJで一年半足らず勉強をして、アメリカ中西部のウィスコンシン州、州都 マディソンに一人でやってきたわけです。ウィスコンシン大学 (University of Wisconsin-Madison)は ばかでかい学校だけあって(学生総数4万人!)設備がいろいろと整って おりました。こちらに来た時も、知り合いがいなかったため、学校の システムを利用して、学校関係者のうちにアパートが決まるまでホームステイ させてもらいました。ホストファミリーというよりもカップルと猫二匹 だったのですが、だんなさんの方が大学のファイナンシャルエイド (日本語では何と言うのでしょう?)関係の事務局で働いていたので、 マディソンに着いて、すぐ、学部長だとか、いろんなオフィスの人達に 紹介してもらって、皆に助けてもらいながら登録手続きを無事済ませました。 そして、いよいよ異国での学生生活の始まりです。

TUJで慣れていたつもりでしたけれど、こちらの大学では教授はもっと速く しゃべるし、クラスの進み具合も速いし、宿題ももっと多い!というのが 最初の印象でしたね。初めの学期は台湾と香港の留学生とアパートで 共同生活をしていたのですが、三人とも毎日2時過ぎまで勉強していました。 で、朝8時からクラスがあったので睡眠時間5時間ぐらい?週末に睡眠不足を 解消していたと思います。でも、これは決して勉強量が多いわけではなく、 英語を母国語としない留学生の宿命ですねっ。日本語の虎の巻ももう手に 入りませんし。(^_^;) 普通、フルタイムの学生であれば4、5教科取るの ですが、だいたい1教科は月水金コースか火木コースのどちらかに分かれて いるので、予習復習を一日でこなさないと、特に読む宿題なんか容赦なく どんどんたまっていくわけです。で、ため過ぎると中間試験や期末試験前に ものすごく苦労するというシナリオになっています。

香港の学生達には圧倒されました、そういえば。成績をものすごく気に するんです。ルームメートの友人で『A』を取れなくて泣きわめく奴が おりましたし、『A』を取ってもクラスで最高点じゃないと満足しない とかねぇ。競争意識が激しいんですよ。私なんて留学生なんだから少々 成績悪くても仕方がないって初めっから開き直っていましたけど。(^_^;) 優等生から劣等生まで一通り経験した私は「成績だけが人生じゃないよ。」 ってなだめようとしたんですけれど、劣等生を経験したことのない香港 留学生を説得するのは無理でした。もう、どうでも勝手にしてくれぃ。 それにしても、あの子達、今、どうしてるんだろう?

この学校で非常に便利だなと思ったシステムは、まず、電話でクラスの 登録ができること。クラスを変更するのもわざわざ事務所に足を 運ばなくてもいいんです。学校が始まって一、二週間以内だったら クラス変更が可能で、一回授業を受けて嫌だと思ったら、クラスが規定の 人数に満たない内は変え放題です。それに乗じて、テキストの返品も もちろんできます。本屋さんも学校と提携していて、使用済みのテキスト の買い取り、そして、その販売をしているので、運がよければテキスト代 を節約できるようになっています。新入生が取る大きなクラスには 大学院生のノートテイカー(授業のノートを取る人)もいて、上手く ノートを取れない人はそのノートを買うこともできました。これは個人の 商売ではなく、学校の正規のシステムの1つです。私も利用しましたが、 私のように意志の弱い人は無断欠席が多くなったりするので、ちょっと 勧められないかもしれません。(^_^;) 先生方はちゃんとそのノートを チェックしているので、そのノートに詳しく書かれていないことを試験に 出したりします。だから、やっぱり欠席するのはいけません。
反対にこれは不便と思ったのは、学校が大き過ぎて教室の移動がたいへん だったことです。授業を二つ続けて別の校舎で取った日にゃぁ、クラス メートや先生と話す暇なんてないし、ひどい時は駆け足で移動です。 一度、心理学と臨床言語学(とでもいうんだろうか?)を立て続けに 取ったのですが、臨床言語学の校舎がキャンパスの端の方にあって (*ちなみに名前も『グッドナイトホール』といういかにも遠そうなもの でした。)、その学期中、見事に遅刻を通したことがありました。確か、 授業時間の合間が10〜15分ぐらいだったと思うのですが、歩いてだと 私の短い足じゃ時間内に辿り着かないんです。授業時間のタイミングも悪く、 キャンパスバスも市営のバスも通らない時間で、いつも、ちょっと走っては 歩いて…を繰り返して移動していました。雪が降っている時なんて『走っては 歩いて…』の間に『滑って』と『転んで』というのもところどころに 散りばめられていましたねぇ。(^_^;)

以前ふれたように、こちらでは、大学の専攻というのは 入学する前に決めていなくても構いません。だいたいの学生は二年時の後半、 あるいは、三年時の前半で決めるんじゃないかな。入学していろんな分野の 科目を取って、自分の向き不向きを確認してから決めることができます。 考えてみれば、日本の大学制度ってそういう意味でちょっと無理なところ ありますよね。例えば、高校生って心理学とか社会学なんてどんな勉強をするもの なのかこれっぽっちも知らないのに、いきなり専攻を決めて受験して、実際に授業を 取ってみたら《こんなはずじゃなかったのに…》みたいなこと、結構あるんじゃ ないですか?その上、専攻の変更が難しいので4年間耐えなくちゃいけなかったり してね。アメリカの大学だと専攻自体も変更しやすいので、何度も専攻を 変えたり、いくつも専攻したりして卒業が遅れるなんてことは日常茶飯事です。
実は、私もUWで専攻を何回か変更したんです。初め、UWに転校する時には ビザを取る便宜上、『東アジア研究学』にして、日本語の先生を目指そうかなぁ、 とおぼろげに考えていたのですが、そのうち『言語学』に興味を感じ、そちらに 専攻を変更。それから、『臨床言語学(?)』の授業を取り始めたら、どちらかと いうと机上の学問の言語学より面白くなってきたので、言語学を無視して 臨床言語学を中心に取り始め、並行して『心理学』も取り始めたら、自分の実験が できる楽しさに目覚めたのです。しばらくは言語学と心理学を専攻として学校に 提出しておりましたが、実践のともなわない言語学はそのうち本当に飽きちゃって 専攻から落としました。臨床言語学は面白かったのですが、なにしろ、履修科目が 非常に多い学部で、二年生の初期から専攻にしておかないと四年で卒業できない ようになっていたので、その時点でギブアップ。結局、最終的には認知・神経 心理学(?)を中心とした心理学の理学士号を取得して卒業に至ったわけです。



大学院に進むことを決意したのは多分大学を卒業する 一年前ぐらいだったんじゃないかと思います。それまでは卒業したら日本に 帰国して、特別のあてもなく就職…って考えておりました。ちょうどその頃、 好奇心から教育心理学のクラスを単位稼ぎに取り始めたんですけど、その後、 大学院のアドバイザーとなったデイヴィス教授の『創造性』の授業がとても 面白く、《これは今やめられない!》とその分野に熱中し始めるきっかけと なりました。もともと凝り性の気はあったんですけど、この時は大学生活初めて 《とことんやってみたい!》というはっきりした思いにかられ、普段、めったに 自分から教授に話しに行かないこの私が(!)デイヴィス教授のオフィスに 足を運び、次の学期に個人授業・研究をさせてもらうように頼んだのです。 それで、まぁ、いろいろと進路の相談などにものってもらい、教育学部の 教育心理学学科に願書を出すに至ったわけです。(「心理学部は冷たい人間が 多いから、教育心理学にしなさい。」という無茶苦茶なアドバイスを してくれたのもこの教授。^_^;)
いくつか中西部の学校に願書を出した中、UWとインディアナ大学が 受け入れてくれることになりました。UWの方が返事が圧倒的に早く、 インディアナ大学から通知が来る前にUWに「行きます!」と返事を 出してしまったのですが、いざ、別の学校から通知が来ると、それはそれで ちょっと迷ってしまうのが人間ってもの。別の場所で生活してみたい気も ありましたから。この当時、何故か、中学だか高校の時に使用していた社会の 地図帳を持っていて、何気なく、その地図帳でウィスコンシンとインディアナを 見比べておったのですが、ふと気付いたのが、州の名前の下にあった赤い字。 ウィスコンシンの下には赤い字で『うし』、インディアナの下には『ぶた』…。 あの時いったい何をどう考えていたんだか、今じゃ覚えてもいませんが…、 『うし』と『ぶた』を発見して相談したんですよ、母親に。国際電話をかけて、 「ウィスコンシンの下は『うし』で、インディアナのしたは『ぶた』なんだけど、 どう思う?」で、母親の答えは「私は絶対『うし』の方がいいと思う。『うし』は 乳牛とかなら殺されなくても済むでしょ。『ぶた』はどう考えても食用じゃない。 『うし』の所の方が絶対平和だって。『うし』にしなさい、『うし』に。」(^_^;) まっ、こういったわけで、母親の一声、UW進学が実現したのです。でも、実は 後になって気付いたのですが、インディアナの方が学費がめっちゃ安かった! UWの半分…。

大学院ではこのデイヴィス教授がかなり私を甘やかしてくれました。大学院は3教科 9単位でフルタイムとみなされるのですが、「あんたも外国語で授業を受けるのは 大変だろう。」と正規には2教科だけ受講し、残りの3単位はデイヴィス教授との 個人研究として登録、何もやらなくてもAをくれるというすごいサービスをして 下さいました。大学院に在籍中ほとんどそうだったような気がする。まともに取って いたのは毎学期2教科だけ。(お陰で、レンタルビデオのクーポン集めてよく映画を 見たし、この頃コンピュータを初めて買って凝り始めたのよね。^_^;)その上、 ある学期には夏期にofferされた教授のクラスを登録なし(=授業料を払わない)で 受講し、その次の学期に同じクラスを登録し、でも全く授業に出ないで夏期の成績を つけてくれたこともありますし。今から考えると、これが良かったんだか 悪かったんだか…。Gifted Education の勉強や創造性の研究は自発的に何かに とりつかれたようにやってましたし、論文の内容とかも時間をかけていろいろ 自分の頭で考えましたけど、授業の内容、今じゃほとんど思い出せないんですよ。 つまり、私の考え方や知識にほとんど役に立たなかった…。緊迫感がなさすぎて、 …ほら、何でも締め切り前になるとエネルギーが出て来るじゃないですか。いわゆる 『火事場の馬鹿力』に欠けちゃって、吸収する機会すら欠けちゃったんじゃない かしら。(^_^;)

でも、今ふりかえると、授業内容を思ったほど吸収できなかった一番の理由は、 恥ずかしいことではありますが、大学院生になったこの時点でも、まだ心理学を通して 自分自身のことを知っていく・確認している段階で、これを自分のキャリアにしたい ってところまでいたってなかったんだと思います。別の言い方をすれば、自分自身の ことがよくわからなかったから、当時の専門(教育心理学内の)human learning に 惹かれたんだと思うのです。
私が日本以外の教育システムを望んだのは、ある意味で日本の学校教育からくる プレッシャーだったと思うんですよ。小学校は好きだったんですけどね。兄が早々と 有名私立校に入って周りからどうしても比較されてしまうということもあり、受験に 対して嫌悪感を持っていたし、行動にはさほど表立って出しませんでしたけど、 中学の頃は学校に反感を持っていて、年に2、3日、自主的に休日を作って欠席して いました。(*でも、そういう日は決まって家で勉強してましたけど。勉強は嫌いじゃ なかったんです。)塾の夏期・冬期講習に登録しては3日で授業出なくなっちゃうし、 高校の最後の方ではちょっと登校拒否気味だったんです。(電車に乗って、そのまま 別の電車に乗り継いで遠回りして家に帰ってきちゃうというのをやってました。 ごめんなさい、私の両親。で、家に帰った後、これもやっぱり勉強してましたけど。) いやぁ、あの頃はなんだか病んでいたよなぁ。はっはっは。そんな感じで、ほとんど 直感的に別の教育システムで勉強したいとは思ったものの、私の高校卒業時点では 知識も経験も浅すぎて、肝心の何を勉強したいっていうのがはっきりしていなかった のです。要するに、この時の私の直感は、方向性を確立するのには大して役に 立っていなかったんです。東西南北のうちどの方向に進むかを決めるのに、《南が 好きだから》という理由があれば南に進んでいけばよいのですが、《北が嫌だから》と いう理由だとまだそこでは東西南のうちどれに進んでよいのか決められませんよね。 それと同じ。日本以外の教育システムに身を置いてみたいということがアメリカの 教育システムが自分の探していたものであるということにはならない。自分の 求めているものに合っているかどうか、この方向からの情報が吸収できるかどうか、 確認することから始めなくちゃ〜なりません。従って、土台がしっかりしていて 自分の方向が南とわかっている、自分をよく知っている人だったら、南から与えられる 情報だけに集中できて、それをすーっと吸収できると思うのですが、私は東西南の うちどれにしたらよいのかまだわからない状態で進学したため、まず一通り北以外の 方向を歩いて情報を吸収する土台作りから始めなくちゃならなかったんですよ。 その上、母国語じゃない英語で土台作りをしなければならなかったので、必要以上に 時間がかかってしまったのです。ほんと、太陽探しているうちに成長し遅れちゃった 木みたいなもん。(だから今が花なの〜。^_^;;)そんなわけで私の大学・大学院 (修士)留学は決して目的のはっきりした、効率のよい、胸を張ってお話できるような ものではなく、あくまでも非常にプライベートな自分探しの旅だったんです。

さて、話を元に戻しましょう。この大学院時代での経験というのは私の学校での 学習(聞いたり読んだり書いたりして学ぶ)スタイルを確立するものになりました。 日本の中学・高校では学期はじめに先生がノートの取り方とか例を挙げて 教えてくれましたが、もともとそういう方法が自分に合っていなかったのか、 はたまた、外国語で授業を受けていると学習障害に近い状態になるため、日本語と 同じ要領でやっても大してその方法が効果を示さなかったのか、とにかく否応なく 自分の学習方法を試行錯誤しながら見直す必要があったわけです。
ノートの取り方は特に基礎を習っている時が重要でした。基礎知識を既に習得 していればそれをもとに頭の中に情報吸収用のtemplateができているので、大して ノートをとらなくても自然にその頭の中のtemplateにおさまって行くんですよ。 (だから基礎知識の土台がしっかりしていないのに、しっかりしていることを 前提とされる場へ留学して苦労する人は多いと思います。これは学校で習得する 知識だけじゃなくて、社会での経験、人との付き合いなど、様々な人生経験が かなり影響してくることを後で痛感しました。)私のノートの取り方:試行錯誤& 変貌記録は『学校生活あれこれ』の中で触れていますので、興味のある方は そちら(98年9月30日付け) を読んでね。
書く課題の多い大学院でデイヴィス教授よりももっとためになった(^_^;)のは、 無料で私の英語添削を辛抱強くして下さった2人の英語専攻のアメリカ人の 学生さん達。この2人には一生返しきれない借りができたと言っても 過言じゃありません。おそらく、この人達の数年に渡る監督がなかったら、 今こうして博士課程でまだ学生をしていることはなかったと思います。 マンツーマンでかなり頻繁に会ってくれて、毎回非常に事細かく 私の意味したいことをdiscussしてくれたので、結果的に、学問的課題を こなすのに必要な発想方法と表現方法を訓練してくれたことになりました。

この大学院の授業の形式にも触れておきましょう。(授業の内容は覚えていなくても 形式は視覚的に覚えているのだ。)まず、大学院にも大まかに分けて2種類に 分けられると思うんですよ、実践的なのと理論的なのと。この学校は研究を重視して いるresearch instituteなので、教育心理学と言っても非常に理論寄りだったんです。 (まぁ、専攻にもよりますけど。)教授達が自分の学説を深めていく方が、学生を 育てていくより中心だったので、授業でもほとんど実践の例が少ない講義でしたね。 学生も社会経験が割と少なくて学校上がりの人が多かったので、ディスカッションや プレゼンテーションも論理で固められていた印象を持っています。まぁ、言うなれば、 不変的なものを追究する哲学的な方向だったのかな。実際、教授陣も学生上がりで 大して子供教育の実践なく大学の教壇に立ってきたエリートが多かったと思いますし。 ある教授は実践を中心とした風潮を蔑視しているというようなことも言っていました から。私は実践と理論のどちらがよいとはいいませんけど、理論って実生活に基づいて ないと、その理論が不変である(=正しい)と立証できる場もうやむやで、大して 意味をなさないし役にも立たないと思うんですよね。その意味で、あの当時のまだ 未熟で経験不足だった私にはこの学校の学問的アプローチはadvanced過ぎたような 気がします。今戻ったらすごく面白く感じるかもしれませんが。

論文はproposalまでは割とコツコツとがんばりました。脳の働きと思考スタイルと 創造性の日米文化比較というのだったのですが、proposal hearingでつまづきました。 論文というのは、まずアドバイザーの教授に監督されながら自分のリサーチの 理由付けにあたるliterature reviewを書き、実験方法やinstrumentのデザインをし、 アドバイザーの他2名の教授をcommitteeに選び、その内容が審査されます。(この 審査がproposal hearingと言われます。)これが結構教授陣の学部内の力関係が 関与してくるので、対立している教授とかをcommitteeに選ばないように注意しないと ややこしいことになるんですよ。で、私の場合も、一人の若いinformation processing 専門の教授が「ここの部分はちょっと甘いので、この概念をもっと勉強して情報を 付け加えた方がよい。」などと10冊もの読み物リストを作ってしまったものだから、 さぁ、大変。私のproposalへのcriticismは、見方を変えれば、論文の監督をして committeeに提出して大丈夫だろうと踏んだアドバイザーの面子にかかってくるので、 「いやっ、その概念はこのリサーチに大切だとは思わないし、その情報を入れても 内容が深まると思わない。必要ないと思う。」とアドバイザーが攻防を始め、何も 言えない私の目の前で言葉の矢があっち行ったりこっち行ったり…。(^_^;)でも、 committeeの承諾サインがもらえないと実験開始できないんです。てなわけで、 アドバイザーが負けてしまい、10〜15冊の読み物リストを抱えて家に帰ったの でした。

しかし、ここからがまた大変。論文に取り掛かる頃って履修科目もほとんど取り 終わっているので、self-disciplineの問題がのしかかってくるわけですよ。これが 理由で10年以上も大学院に残っていた学生、何人か知っています。はい。(^_^;) 私の場合も御多分にもれず、これがちょうど大学院生が無料でe-mailとかgopherとか 使えるようになった頃と重なって、学業に集中するのが難しくなっちゃったんです。 そう、あの頃は、初めは工学部やコンピュータ専攻の学生以外はコンピュータの アカウントがもらえなくて、それが少しづつ緩和されて、全ての大学院生がもらえる ようになり、そして、ウィンドウズが開発されて、大学生もアカウントがもらえる ようになったんですよ〜。私は論文のアイディアにつまった時によくgopherでの チャットラインで夜中に遊んでいて、でも、そのお陰でキーボードのタイプを マスターしました。(^_^;)ウィンドウズが入ってからは、大学時代から続けていた 図書館の仕事(日本語・中国語・韓国語の書籍のカタログ作り・OCLC)でボスから かなり頼りにされ始め、ワークショップに出たり、オフィスの鍵をもらってオフィス 時間後に仕事に行ったりと、学業以外のこともやり放題。(ボスからは、早く卒業 しないでくれと頼まれる始末。^_^;)

しかし、ものごととは上手いタイミングでいろいろと起こるもの。悠長にやって いたら、2つの通知が届いたのです。1通は学部からの手紙で〈近いうちに human learningという専攻が閉鎖され、現在human learningを専攻している学生は cognitive science…だったと思う…に合併されます。〉というもの。これって つまり、履修科目や担当教授等が変わってしまうのでとっとと終わらせろということ。 そして、もっとショックだったのが、アドバイザーのデイヴィス教授が退職ですって。 なるほど、だから専攻がなくなっちゃうわけだ。でも、退職してもしばらくは時々 オフィスに戻ってくるので、1年間はアドバイザ―として学校から認められるとの こと。それで1年以内に終わらせるべく、慌ててproposalを改編し、○ヶ月後、 committeeにサインをもらったのですが、もうもらいに行った時は皆私の論文の内容、 忘れていましたね。(^_^;)

私のリサーチでは日米大学生を使った比較を念頭に置いていたので、米ではUWの、 日では知り合いのお父さんが教授をやっている筑波大学の学生さん達にsurveyを やってもらうことにしました。学生数はそれぞれ80名ぐらいづつだったかしら。 ただ、日本語への翻訳も結構大変。全部で200問ぐらいに答えてもらうもの だったんですよ。このリサーチ、修士のレベルでは規模が大き過ぎるから、後の 博士にまわしたらどうだって言われたんですけど、別にそれ以外のリサーチを 思いつかなかったんで、そのままやることにしたんです。アメリカのデータは、 英語(=原文)でしたしUWでsurveyができるので、簡単なパイロットスタディを やった後、ある授業を受けている学生達に回答してもらい、全部のデータが集まって データ解析所に送るまで教授に預かってもらうことになりました。日本のデータは 翻訳などの手間もあり、そのまた○か月後、やっと日本に郵送したのです。その夏は、 日本に帰国して、その親切な教授にあいさつがてら筑波大学に寄り、回答を回収して 学校に戻ったのですが、統計をどのように取るか再考している間、UWのデータと 一緒にデイヴィス教授に託していたのが、後にとんでもないことになってしまったの です。次の5月を卒業予定にした11月中頃だったと思うのですが、教授から 手紙が来たのです。〈非常に申し訳ないのだが、私がオフィスを留守にしている間に、 掃除の人が入って、データを他のものと一緒に捨てちゃったらしい。〉(T_T)…こんな ことってあっていいんでしょうかぁ。もう、駄目だ、このおじいさんは!どっちみち、 このおじいさんはキャンパスにいつもいるわけじゃないし、アドバイザーでいられる 期限が迫ってきていたので、落ち込みながらも、とりあえずアドバイザーを変更して、 この先どうするか考えることにしました。しかし、当時クラスを取っていて頼りに 思っていたファーリー教授におじいさんからの手紙を持っていって相談したところ、 「アドバイザーになってあげたいのだけれど、来学期からフィラデルフィアの テンプル大学に移っちゃうんだよ。相談にはのってあげられると思うんだけど…。」 (T_T)と言われ、おじいさんと仲の良いcommitteeのうちの一人でもあるクラースン 教授は「実は私も近いうち退職するんだよ。論文、急いで仕上げられるんだったら アドバイザーになってあげよう。」(;_;)だって。なんてこったい。創造性関連の 教授ってこの3人ぐらいしかいなかったんですよ。とりあえず、というか、選択の 余地なしで、まだキャンパスに残っているこのクラースン教授にアドバイザーに なってもらうことにしたのですが、今後の選択が3つあると言われました。〈データを 取り直す〉か、〈全く新しくシンプルな論文を書く〉か、〈博士課程トラックの 修士論文をやめて、修士ターミナルのプロジェクトとして実験なしのliterature reviewだけを提出して卒業する〉の3つ。私の頼りにしていた教授陣が全員いなく なるということがわかった時点で、この学校に残る気はすっかり失せていたし、 クラースン教授の時間の関係からしても、悠長にやっていたためすでに1年卒業が 延びていたことからしても(^_^;)、なんとか5月には卒業せねば…。5月卒業の場合、 論文およびプロジェクト提出は2月が締め切りなんですよ。だから、初めの2つの 選択は、oral defenseまで終えなければならないことを考えると時間的に非常に きつい。そして、クラースン教授の「実験のあるなしにかかわらず、同じ修士号が もらえるので、このリサーチは後に学校に戻った時にまわしたらどうだ?」という 一言により、3つ目の選択でそそくさと卒業することにしました。…後ろ髪引かれまくり でしたけど…。(;_;)でも、この後ろ髪が後に博士課程に進む原動力になったのです。うむ、 人生万事塞翁が馬だよね。

《次の頁にゆく》


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