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「なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て。」について

野嵜健秀は掲示板荒しの尻尾を出したか?の。

なんぢらの中、罪なき者まづ石を擲て。

と云ふ引用文について。


良く考へてみたのですが、當方を非難してゐる人は、「野嵜は、石を擲たれる自分には罪があると考へてゐる、にもかかはらず、お前らだつて罪があるだらう、だから俺に石は擲てない、だから俺はますます惡い事をするんだ」と言つてゐる、と解釋して、怒つてゐるやうです。

もちろん、野嵜にそんな考へ方はありません。野嵜は、「自分には罪がない」と考へてゐますし、だからこそ、自分に罪がない所以を野嵜健秀は掲示板荒しの尻尾を出したか?で書いてゐます。何も、惡い事等する積りもありませんし、事實として、してもゐません。

「野嵜には罪がある」と考へてゐるのは、野嵜を非難してゐるアレクセイや「義」の方です。彼等にとつては、「野嵜には罪がある」と云ふのが「腦内眞實」であり、彼等にとつて「腦内眞實」は即「現實」であり、「アプリオリの眞實」であります。もちろん、それは飽くまで「彼等にとつて」の、或は彼等の「腦内」の事であり、一般的な眞實なり事實なりではありません。

ともかくアレクセイや「義」が「野嵜には罪がある」と考へてゐる事は確かであります。しかし、彼等にとつて「野嵜に罪がある」事が「眞實」であつても、だからと言つて「野嵜に石を投げ附ける」事が許されるのか何うか――そもそも彼らに罪はないのか、と野嵜は問うてゐるのであります。

これに對して、野嵜を非難した「野嵜に復讐してやりたい某氏」「アレクセイによつて復讐を支持された某氏」によれば、その某氏自身には罪があるのだと云ふ事です。と云ふ事は、その某氏は、「自分は惡い事をしてゐる、と知りながら、平氣で野嵜に對して惡い事をしてゐる」と云ふ事になります。

さう言ふ態度は赦されるのか、と云ふのが、なんぢらの中云々の引用文で野嵜が示したかつた意圖なのですが、傳はらなかつたやうです。


が、そもそも、さう云ふ態度をとつてゐる某氏は、某氏自身を否定すべき理由で以つて野嵜を非難してゐるのではないですか。かなりをかしな話ですね。もつとも、某氏自身、「理屈じゃない」と絶叫してゐましたし、「復讐」だと言つてゐる訣ですから、理性的に野嵜の行爲を批判してゐる訣ではないのです。


ともかく、アレクセイや「野嵜に復讐したい某氏」は、自分自身の觀念を野嵜に投影して、それで野嵜を罵つてゐるに過ぎません。そして、その罵る態度は如何にも傲慢であるのですが、それを野嵜に投影して「野嵜は傲慢だ」と言ふのです。これは「義」や「ノズラー廣報部」なる者の得意とする科白です。