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初出
2005-03-05「闇黒日記」
公開
2005-03-06(大幅に加筆)

野嵜健秀とは誰ぞ?

野嵜を名乘る「僞者」

野嵜健秀 - 2005年03月05日 @ 2:04 pm | type >Comment

里谷多英を見習え !

 硬い一物を、騎乗位にて、自ら子宮に打ち付け

  熱い精液を、子宮奥深く、搾り取ろうとしたところを

   店員に止められ、暴行に及んだのだぞ。

トラバをくれた野嵜健秀さんTHANKS!なにかと思ってググッてみたらフジテレビの看板娘・里谷多恵が性行為を咎められて警察沙汰のご乱行だそうだ。

そんなトラックバックなど送つてゐねえよ。誰だよこの「野嵜健秀さん」は。


「見習え!」「〜のだぞ」式の偉さうな口調は、野嵜に粘着するネットストーカーの「義」と呼ばれる人物が愛用するもの。これは「義」の投稿である。2005年3月5日前後にこの文面の記事が、各地の掲示板・「ブログ」に複數投稿されてゐる。全て「義」の仕業である。本物の野嵜がした投稿ではない。

インターネットとは、ただ「繋ぐ」爲だけのもの

だが、誰が「本物」であるか、それを決定的に證明する手段は、現在のウェブ――と言ふよりインターネットには存在しない。

技術的に、ウェブでは「誰」が投稿したかは判らない。ただ「何處」から投稿したかだけがはつきりするに過ぎない。だから、他人の名前を騙る「義」が出て來たり、自作自演で他人を誹謗中傷するアレクセイが出て來たりする。

慥かに、アレクセイが言張つたやうに、リモートホストではアクセスした機械のネットワーク上での「場所」が判るに過ぎない。その機械を操作した人物は、インターネットの技術では絶對に特定出來ない。

同じリモートホストであつても、それがアレクセイの投稿か、ホランドの投稿か、楽古堂の投稿か、は、技術的には判別不能である。ただ、「指示」を「支持」とやる等、漢字の誤變換が共通だから、アレクセイ=ホランドである可能性は高い、としか言ふ事は出來ない。しかし、もちろん、アレクセイもまた、同じリモートホストの投稿について、野嵜が投稿したものか、Fankee_Jrが投稿したものかは、決定出來ない。さう云ふ事を突詰めて考へれば、誰も確實な事は絶對に言へない。

機械と機械の操作者との必然的な關係は、インターネットの技術の預り知らぬところである。が、さうなると、機械の操作者の自稱は意味があるのか、と云ふ話になる。

「誰」の發言かを決められない掲示板や「ブログ」のコメント

ウェブにおける匿名と實名についてとか、署名による責任の明示とか、さう云ふ事を論ずる人は少くない。もちろん、觀念的な議論は可能ではある。けれども、投稿者と署名とは、常に必然的に一致する訣ではない。匿名や騙りが可能である、と言ふだけではない。そもそも、誰が投稿したのかは、「わからない」のである。

さう云ふ事を考へると、掲示板とか「ブログ」のコメント欄とかの署名は、本質的にナンセンスであると言ふ事が出來る。

そして、署名がナンセンスである以上、掲示板とか「ブログ」のコメント欄とかの發言は、全て例外ナシにナンセンスであると言へる。たまたま「使へる」發言があつたとしても、それは「偶然のもの」に過ぎない。「署名して責任の所在を明示してゐる」と投稿者が思つてゐても、その署名は決してその投稿者と必然的に結び附かない。

ノイズとしての「自由な投稿」

雙方向性はウェブの特質である、と云ふのは一般論だが、その雙方向性があるからこそ、ウェブは腐つたのだ、と言つて良いと思ふ。

掲示板も「ブログ」も、個人ではなく複數の人によつて生成される。Wikipediaも同樣である。だから駄目である。複數の人によつて生成されるコンテンツは、情報が多くても、「ノイズ」も多くなるから、使ひ物にならない。量ではなく質の觀點から言ふならば、ウェブは掲示板や「ブログ」のやうな複數の人間で生成されるコンテンツの所爲で「ノイズ」だらけになつてゐる。

ユーザビリティとかアクセシビリティとかと、掲示板や「ブログ」のコメントやとは、兩立し得ない。「嘘を嘘と見拔ける人でないと掲示板を使ふのは難しい」は即「掲示板はユーザビリティもアクセシビリティも低い」と云ふ事である。

善意を前提とした技術と、惡意による利用の存在

さう云ふ本質的な「投稿者が判らない」インターネットの掲示板・「ブログ」のコメント欄・Wiki等の「インタラクティヴ」な仕組を惡用する手合は、人間の性質が本質的に惡である以上、ゐなくなる事はない。そして、現在のインターネットの「インタラクティヴ」なコンテンツは、全て例外ナシに、投稿者が善意である事を前提に設計されてゐる。

セキュリティとかさう言つた問題は、そもそもインターネットが善意を前提としてゐる爲に生じてゐる問題である。現在、インターネットにおいて、ネットワーク技術の改良は、善意の利用者を前提とした從來の設計に、惡意の利用者の犯罪行爲を防ぐ爲の仕組を接木する、と云ふ方向で進められてゐる。

だが、そもそも善意を前提としてゐた時點で、インターネットは致命的な缺陷を抱へ込んでゐるのである。だが、その善意を前提とする事は、現在の人間の技術では不可避である。全てのインターネットに接續する機械と、機械の使用者とを、必然的な關係で結び附ける事は不可能である。そして、それが實現出來なければ、匿名や騙りによる全てのインターネットでの言動は撲滅出來ない。

匿名・騙りによる嫌がらせの被害

ただ、惡意のユーザがゐる事は、善意を信ずる技術者・思想家も事實として認めておかねばならない。そして、さう云ふ前提から、インターネットの樣々な問題に關する議論ははじめられるべきである。依然、昔のやうな善意のインターネットと云ふ前提で、暢氣な議論をしてゐる人が多過ぎる。

例へば、ウェブの匿名性や匿名による告發の可能性を過大に評價してゐる連中は、今でも極めて澤山ゐる。しかし、彼等は、例へば匿名を利用した惡意による嫌がらせを實際に受けてみれば良いのである。大概の人は、御氣樂に、何となく「匿名は良い」と思つてゐるに過ぎない。「自由」の氣分で物を言つてゐるのである。

匿名の可能性を主張する人は、匿名による嫌がらせを受けた被害者の救濟について、何らかのコメントを出すべきだと思ふ。

しかし、そもそも匿名で物を言はなければならない社會とは、自由がない社會である。今の現實の日本の社會が、そんなに非道く不自由な社會であるとは言ひ難いのであるが、もしさうであるならば、どうしてインターネットが不自由な社會でないのだらうか。もちろん、技術上の問題で、統制が取れないだけであるのだが、さう云ふ無秩序が「ある」のならば、ウェブは自由なのではなく、渾沌の世界である。人々は、さう云ふ事實を認める必要がある。

掲示板や「ブログ」等の投稿は、全て無記名・無署名のものと、人々は考へるべきである。誰でも投稿出來る掲示板や「ブログ」のコメント欄などにおいて、フォームの記名欄・署名欄は、全て廢止する事が望ましい。恰も、署名が信頼出來るかのやうに記名欄を設けてゐる現在の全ての投稿を受附ける掲示板・「ブログ」のコメント欄は、CGIプログラマが深い考察を行はないまゝ適當に過去の因習に從つて附けた、實は有害な代物である。

記名欄がない現在の虹裏の管理人さんは、或意味、良く解つてゐる。

一方、會員登録が必要なサーヴィスにおける投稿者名は、或程度、信頼出來るものとすべきである。が、現在、Yahoo!のやうな「誰でも登録出來る」會員サーヴィスは、その邊の事がちつとも解つてゐない。Yahoo!のオークションは、詐欺事件が多發した事から、やつと對策を考へ始めた。しかし、掲示板の方は現在も匿名サーヴィス同然の非道い物である。Yahoo!は、匿名による利用を助長する爲のサーヴィスだつたので、犯罪者的な利用者には現在も利用しやすいサーヴィスである。

雙方向性のあるコンテンツと、掲示板におけるユーザ間のコミュニケート

署名による投稿が全てナンセンスである以上、「誰々さん」と「誰々さん」とが掲示板でコミュニケートし、仲良くなり、知合となる、と云ふ過程は不可能である。現在は、たまたま實現してゐる掲示板が「ある」だけである。

「義」のやうな騙りが増えれば、誰が投稿したのかわからなくなり、「誰」に依存してゐるコミュニケーションは崩潰する。現在は、その危機が目立つてゐないだけに過ぎない。もちろん、それが目立つた途端、掲示板は崩潰し、誰も利用できなくなるから、目立ちやうがない、と云ふ事だが、潰れる掲示板が増えれば、問題は顯在化する事になる。

が、顯在化しなくとも――即座に顯在化はしないだらう、それほど犯罪者的なユーザは現状、多くない――問題が「ある」事には變りがない。そして、事實としてさう云ふ犯罪者的なユーザの被害を受け續けてゐる人間は、ウェブには存在する。「義」による粘着的なストーカー行爲を、野嵜は現に、數年に亙つて受け續けてゐる。

かう云ふ被害者の救濟を、現状のインターネットは技術的に實現出來ない。寧ろ、加害者に荷擔するやうな方向で「進歩」が進んでゐるとすら言つて良い。