>ニルヴァーナ小林樣
と云ふ事で、次はレッドカードになります。
>ペトロニウス樣
かつて無意識のうちに書かれてゐた日本語を意識的に再定義したのが契冲であると私は考へてをります。歴史的假名遣は「復古假名遣」と呼ばれてゐますが、寧ろ私は「意識的な再定義」であると云ふ點で近代的なものであると考へる譯です。
歴史的假名遣の否定である「現代かなづかい」を使用する事は當然、過去の無意識の時代へ囘歸しようとする態度の表明であり、近代以前への囘歸であります。「現代かなづかい」を使用してゐる時點で、その人は近代的な個人主義を拒絶してゐるのであり、その人に近代的な主義主張がある事はあり得ない、と云ふ事です。
さう云ふ意味で、「現代かなづかい」派の人が自己の文章に意識的になれる筈は無く、私の引用の仕方に文句をつける事は不可能である、と言つた譯であります。
この主張の弱點は、近代以前の意識しか持たうとしない「現代かなづかい」派の人は、近代的な論理を理解しない、と云ふ處にあります。
>toka3aki樣
と云ふか、松原門下はモーツァルトやら何やらを聽かねばならない義務があるのですが、私はその手のCDを一枚も持つてゐません。
クラシックも、ウェブをあさればMP3がぞろぞろと出て來さうですが、。
投稿者名は統一して下さい。
toka3akiです。
>アニメ主題歌をBGMにしてゐる私には、クラシックの事はさつぱり。
保守思想でクラシックにおける現代の病理を斬るのも楽しいですが( ̄ー ̄)、それでも伊福部昭は良いです。特に「SF交響ファンタジーNo.1-3」はオススメ。私は特撮もアニメもさっぱりですが、それでも楽しめます。
>ヴァレリイが<引用 「女性の知的運命」より>音樂の大家の間には、女性が一向に見當らない</引用>なんて言つてゐるのを見附けましたが。
どこかの音楽評論家曰く、がんこな老指揮者への人気は、J-POPにおける女性アイドルの人気と同じ、とのこと。クラシックにすでに「アイドル」が存在する以上、女性の出番はないわけだったりします。
いずれにしても小林秀雄は燃やして灰にしなければならないということですね、小囃子秀雄さん。
木村様、私は決してペトロニウスさんの「常識的」見解を否定するつもりは毛頭ございません。私も「凡庸」で「つまらない」市民の一員として大いに賛成するものであります。「防犯と藝術の話を峻別」すべきであることは、阿呆でも解かることであります。ただし、誤解を招いたことはお詫び申し上げませう。
ただし、以下の点につき疑義を申し奉りたく存じます。
一、貴殿は「唯物論者だつて、否、唯物論者こそ、マルクスやらレーニンやらの思想を自分なりに解釋したうへで、延々と議論する事を何よりも好む人間でせう」とおっしゃるが、唯物論の起源はマルクスやらレーニンにあるわけではありません。唯物論は遅くともギリシャ時代に遡るルーツを持ちます。実際にはもっと古いでせう。貴殿が前提とされているような唯物論即マルクス主義という思想史上の偏見こそ、私に言わせれば「觀念の贋作」に他なりません。
二、貴殿は「彼らに「觀念の贋作」を「どのやうに考へる」のかと鬼の首でも獲つたやうに問ひ詰めたところで、痛くも痒くも無いでせう」とおっしゃるが、私の発言は唯物論者だけに限定されてなされたものではありません。むしろ観念の厳密さをおろそかにし、「觀念の贋作」を日常的に大量製造している人々のことを「鬼」と呼ぶべきでありませう。ひょっとするとあの小林秀雄も「鬼」の一人だったのかもしれません。確かに貴殿が日本のあり方を批判的に評価しているが如く、我が国の文壇では安物の印象批評的な物書きがのさばり続けてきたのであります。
三、貴殿は「現代日本の如き非常識な國では、常識にこそ希少價値が有るのであります」とおっしゃるが、「希少價値」という観念こそ「交換価値」に主眼をおいた発言でせう。しかし、既に申し上げたとおり、「交換価値とは関わりなく藝術性を追求することこそ、世の中を面白くする秘訣というべきで」せう。
横合ひから失禮致します。 唯物論者だつて、否、唯物論者こそ、マルクスやらレーニンやらの思想を自分なりに解釋したうへで、延々と議論する事を何よりも好む人間でせう。すなはち、唯物論者が非「物理的」な事柄(例へば思想)について論ずる事は、非唯物論者が自然科學について論ずるとの同様、別段珍しくも不審でも無い事であります。從つて、唯物論者だからと云つて、例へばマルクスの僞書を見分けられない筈はありません。彼らに「觀念の贋作」を「どのやうに考へる」のかと鬼の首でも獲つたやうに問ひ詰めたところで、痛くも痒くも無いでせう。
私はペトロニウスさんの「常識的」な發言が「つまらない」とも「凡庸」とも思ひません。現代日本の如き非常識な國では、常識にこそ希少價値が有るのであります。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」。小林樣は防犯と藝術の話を峻別して議論された方が宜しからうと存じます。
ペトロニウス様、レスポンスいただき誠に有難うございます。
ペトロニウス様の御見解は至極尤もであり、ある意味では極めて当然過ぎる見解です。しかし、あまりにも常識的に過ぎ、コメントとしては凡庸であり、つまらないのではないでしょうか。交換価値のあるところには必ず偽造犯罪の可能性があると言うだけでは、世の中つまらないというしかありませぬ。交換価値とは関わりなく藝術性を追求することこそ、世の中を面白くする秘訣というべきでしょう。
贋作と言っても、絵画のようなものであれば物理的に真贋を鑑定することが可能です。しかし、文学の場合はいかがでしょう。物理的な鑑定は意味を持ちません。そもそも観念の贋作は有り得ないのでしょうか。有り得ないとは決して言えないでしょう。これを唯物論者はどのように考えるのでしょうか。また解釈法の贋作はいかがでしょうか。こういった問題を踏み込むためにこそ、壱千円札の話が出たと解釈しております。
小林秀尾様、はじめましてでせうか。ご意見ありがたうございます。
藝術作品には贋作は附き物ですね。高名な物ほど贋作が作られる可能性も高くな
る事でせう。一般庶民を騙す稚拙な物から、蒐集家を騙す精巧な物迄、また、高名
品の肖(あやか)り物や土産物なんかも有ります。
唯、其れが紙幣等の通貨に及ぶと事は違つて参ります。通貨は、国家が保証する
取引きの為の媒体であります。此れは、国家が存在して始めて其の価値が生じま
す。
通貨を贋造すると云ふ事は、不当に資産を増長させると同時に、其れを行使する
事で他人を騙し、又、酷い場合には国家に多大なる不利益を生じせしめます。
其のやうな理由で贋造される訳ですから、「紙幣の藝術性」は間接的には関聯が
あつたとしても、其れを「放棄」したからと言つて紙幣の贋作、通貨の贋造は、無く
なる事は無いと思ひます。或は、通貨の存在する限り、贋造は避けられない犯罪
である事を認識した上で、防犯及び犯罪への適切な対応が重要になるのだと思ひ
ます。当然ですが、通貨が存在しななければ、贋造犯罪も完全に消滅します。
思想と云ふ言葉が拙かつたかな。人が考へ思つた事を表現したものが言葉であ
り、其れを書記したものが文章となります。其処には表現する人の意志や願望が
入つてゐるものです。この「考へ思つた事」を「思想」としましたが、思考のはうが宜
しいでせうか。
確かに新字新かなの時代に新字新かなを使つてゐる人がポリシーを持つて其れ
を使つてゐる事は無いと思ひます。此れは、この時代の人達にとつて「国語の表記
方法」は、「此れしか知らない」と云ふ事や、此れで通じてしまふこの世の中から判
断して、其の結果此れを当然の事と受取り「正しいのだ」と無意識に思ひ込んでゐ
る処から来る結果の一つになるのでせう。
詰り、普段は表面化しないのであつても、もう其れは一つの思考を形成してゐると
見ても差支へないと思ひます。そして、相対するかなづかひで反論された時にこの
思考が或る形を以て初めて具現化されるのです。
又、文章の部分を引用すると云ふ事は、引用する側の表現の一部として構文する
為の方法として有ります。其処には引用される側の人の意見が表現されて、此れ
を受けて引用する側の人の意見が表現される形式をとるものですね。例へ「ポリ
シーの無さ」と云ふ事でも其れが一つの思考を形成されてゐるのであれば、其れを
誤つた表記と認識した上で原文かなづかひの侭引用すると云ふ事は、「方法論」と
して見ても有意義なものであると云へませう。さう云ふお考へで実際にさうなさつて
ゐるんだと思つてゐました。
此れは決して過程としての表記の一貫性から逸脱する行為では無いと考へます。
谷崎潤一郎の「細雪」などの類は、史的唯物論者のようなユートピア的世界観の持ち主から見れば、ただのプチ・ブル的な妄想に過ぎないのでしょう。しかし、「鍵」などの作品は極めて即物的、唯物論的であります。谷崎先生の描かれたユートピアは、イデオロギーを超えて美しいというべきなのでありましょうか。
野嵜先生、ペトロニウス様
御存知のとおり、いかなる藝術作品においても理論的には贋作の出現を完全に食い止めることは出来ないのであります。事実、我が国の造幣局は紙幣の意匠を藝術性をもって表現しようと努めております。その結果、こういった事態が起きてしまっているのではないのでしょうか。我が国の紙幣が藝術性を放棄したとき、必ずや贋作の出現は無くなるでありましょう。
>ペトロニウス樣
<引用>引用される側の人の思想</引用>ですが、新字新かなの時代に新字新かなを使つてゐる人がポリシーを持つて新字新かなを使つてゐる事は絶對にないと思ひますが、如何でせうか。まあ、引用される側の人の「ポリシーのなさ」を象徴的に表現する爲に新字新かなのママにしておくと云ふ「方法論」はありかも知れませんが。
>toka3aki樣
アニメ主題歌をBGMにしてゐる私には、クラシックの事はさつぱり。ヴァレリイが<引用 「女性の知的運命」より>音樂の大家の間には、女性が一向に見當らない</引用>なんて言つてゐるのを見附けましたが。
>U-Z樣
あれれ。直しておきました。それにしても、今まで誰もこの間違ひを指摘して來なかつたと云ふ事は……。
こんばんは、U-Zです。
「Quio's Workplace Quio's Workplace Quio's Workplace Quio's Workplace」を斬る
の265行目パラグラフ内の<p>が実体参照となっていないようです。
toka3akiです。
木村サマ:
>「ゴジラのテーマ」も伊福部昭さんの他の曲も好きです。
やはりそうでしたか。私の方は、3枚程CDを持っている程度ですが・・・、結構好きです。ちなみに、私が「日本のクラシック音楽作曲家」としてみとめているのは、他に武満徹と吉松隆ぐらいです(早坂は保留・爆)。おっしゃるように、福田恆存氏が論じたら面白いだろうなという気はします。ただ、同様の問題を抱えている現代演劇ほど深刻でないのは、「日本のクラシック音楽作曲家」のパイの小ささゆえかもしれません(笑)。
個人的には、「クラシック」なるものは西洋伝統音楽様式に基づく人類の音楽の弁証法であると考えております。その視点からすれば、リストのハンガリー民謡からピアソラのタンゴ、そして伊福部昭さえもクロノスの鎌のエジキだったりします。そげな現実を踏まえねば、日本のクラシック音楽とは根無し草の運命を免れえないでしょう。
岩波文庫の「古今和歌集」は私も持っております。他の「千載和歌集」「新古今和歌集」も、「歴史的仮名遣い」へ「改竄」してありました。原文を読みたければ、「新日本古典大系」を買えという資本主義的戦術なのでしょうか(爆)?
自分が誰かの文章を引用する時は、かなづかひや字体も其の侭の状態で引用さ
せて貰つてゐます。多分、不精な性格がさうさせてゐるんだと思ひます。此れは
「手抜き」と言はれても仕方ありません。
過程としての表記の一貫性と云ふ点で、原文を正字正かなに改変させて引用する
事も理解できます。一つの文章に二つ以上の表記表現が混在する事は、読む側
の混乱を招く可能性も有ります。
一方、文章には表現者の思想が反映されるものと云ふ考へもあります。此れは、
選択される文字、語、かなづかひ、言葉遣、句読点の位置、段落の付け方、果て
は表題に至る迄、文章全般について思想の反映がなされてゐると云ふ立場です。
かう云ふ考へ方で文を引用するとすれば、かなづかひは其の侭引用しても可笑しく
ないと云ふか、引用される側の人の思想を正確に表現できるとも言へるかも知れ
ません。
表記の一貫性をとるか、正確な思想表現をとるか、悩ましい処です。
私の場合、「人間は、正式の文書を書く時は襟を正しつつ、非公式的な文書を書く時は氣樂に書くものである」と云ふ認識があるのであります。
ちなみに、表記と文學的な價値とは無關係ですね。新字新かなを用ゐる中野重治の方が正字正かなを用ゐる三島由紀夫よりも立派な文學者である、と云ふ事は、我々「松原正信者」の共通認識です。
過程を重視する、と言うことですか。
成程。言語を意味伝達の道具と捉えるのならそういう論理も成り立ちますね。
僕はちょっと違う考えですが、野嵜さんの考えは判りました。
「一般的だから正規」とは僕も思いませんね。
僕が新かなを使うのは文学者としての方法論的選択です。
松原正先生も、『文學と政治主義』(地球社)で、大江健三郎の文章だけは「現代かなづかい」のママ引用されてゐましたね。それがまた、大江の馬鹿さ加減を何とも絶妙に「浮上がら」せてをりました。
手許の岩波文庫版「古今和歌集」(佐伯梅友校註)の凡例には、「かなづかひを歴史的かなづかひに改めた」とあります。正假名への「改竄」は岩波ですら認める出版慣行なのであります。呵々。
引用元が對談や談話の類の場合、自分流の表記に直す事があります。發言者は表記の事など考へて喋つてはゐないので、私が表記を「改變」する事に何の問題がありませうか、否無い。笑ひ。
眞面目な論文を書く際、私は全ての表記が私の意圖を出來得る限り反映するやう一字一句まで檢討してをります。その場合、引用は大抵、本文の流れから浮上がらないやう、正字正かなに「改竄」します。嫌みの意味を籠めて新字新かなで表記する事もあります。
一方、不眞面目なお遊びの戯れ文を書く際には、文章は全然練りませんし、校正は好い加減で濟ませます。引用も改めたり改めなかつたりします。
私は、いかなる時にも全く同一の態度をとるべきだとは考へてをりません。意圖と場面に應じて適切な表記を使用する事こそが、寧ろ一貫した態度であると認識してをります。論文に冗談を書いたり、冗談を眞面目な顏をして言つたりするのは失禮であります。
實は、正字正かなを原則として認めると云ふ事と、全ての表記を正字正かなに統一する事とは別の話であります。「新字新かなが一般的に使用されてゐるから、それを正規の表記とする」と云ふのは間違つた論理です。しかし、「新字新かなは一般的に使用されてゐるから、それを誤つた表記と認識した上で、正字正かなに改めたり、新字新かなのままにしたりする」と云ふのは正當な行爲であります。
要は、結果としての表記に見られる一貫性ではなく、過程としての表記に於る一貫性こそが大事である、と云ふのが私の主張である譯です。
岡崎樣
おつしやる通り、「ゴジラのテーマ」も伊福部昭さんの他の曲も好きです。手許に中村錦之介主演「反逆兒」のテーマの入つたCDなんぞあつたりします。「日本のクラシック音樂作曲家」と云ふのは、福田恆存さんに論じていただきたかつたテーマです。「histoire」が理知的と云つたのは、單に語源からの印象でして、どうかあんまり氣にしないでください。
野嵜樣、渡邊樣
私も新字新假名の文章を引用する場合は、原則として「正しい表記」である正字正假名に直します。「原則」と云ふのは、掲示板や「獨白」のやうに氣輕に或は急いで書く場合には、原文の新字新假名をそのまま張附けて濟ます事が多いからです。まあ、好く云へば時間の效率活用、有り體に云へば手拔きですね。表記方法そのものがテーマになる場合は原文の表記を明記しないと讀者が理解しにくいでせうけれども、さうでなければ、學術論文では無し、そこまで嚴格に考へなくとも好いだらうと「融通無碍」に構へてをります。
僕は旧かなの文献はできるだけ旧かなで引用しますが。
面倒くさかったからとかそういう理由で新かなで書いてしまったときは、
「原文の仮名遣いを改変しています」と注記します。
それは旧かなが正しいと思っているからではなくて引用元がそうなっているからです。
誤字であっても修正せずに「原文ママ」と注記します。
翻訳で読んだものの話をしているわけではないときは、
むろん原文で引用しますし、読者の便宣をはかって訳したときは「拙訳」と注記します。
それが引用するときの通常のパターンだと思うんですが。。。
(むろんうっかりすることはあるんですけど)
このサイトにある旧かなに書き換えたテキストファイルはわかるんです。
そういう趣旨があらかじめ説明されているので、
それが野嵜さんの表現方法であり、主張として読めます。
しかし掲示板の投稿では「原文は新字」という注記がないので、疑問に思ったわけです。
日記などでは新字新かなの文章をそのまま引用されていらっしゃることもあるのですし、
やはり一貫性という面から考えて首を捻ってしまうんですけれども。。。
「改めてるのもそれと同じで」の「て」が餘計だとか、「権利を云々する」の「権利」が新字だとか、さう云ふ事を普段から誤字や脱字だらけの文章を書いてゐる人が嘲笑出來ないのと一緒です。
間違へても屁理屈を言ふ奴。
>Makoto樣
<引用>
誰も見ないとでも思ったのかな。
</引用>
同感です。まあ、大概の法律や契約書の文章なんて、讀まれませんからねえ。
>波江樣
これは便利です。論文や文法講座には、ばらばらに記述されてゐますから、五十音圖の變遷を一覽表の形で見られるのはありがたいです。ただ、テーブルとBGMがやたらと重いですが。
>渡邊樣
他人樣のサイトの文章を引用する際に、タグが間違つてゐたら正しくタグを打直しますけれども、新字新かなを正字正かなに改めてるのもそれと同じで、問題はないのではないですか。凄い喩へですが。
そもそも、正かなの文献を新かなに改竄して平氣でゐる人には、新かなの文献を正かなに改竄する行爲を批判する權利なんて最初からありません。或は、新字新かなを使つてゐる時點で「正しい」と云ふ價値觀を既に抛棄してゐるのですから、その人は他人を「間違つてゐる」と批判する事が本質的に出來ないのであります。さう云ふ譯で、私が新字新かなの文献を正字正かなに改める事について、新字新かな派の人は誰も文句を言へません。私を責めた瞬間に、その人は自分の新字新かなの文章を全て否定してしまつてゐます。正字正かなの方が新字新かなより先にあつたのだから、正字正かなには優先權があります。正字正かなの權利を無視して新字新かなを使つてゐるので、新字新かな派の人は権利を云々する事が出來ないのであります。
私は正字正かなで文章を書いてゐる譯で、自分の文章の一貫性を保つ爲には新字新かなの文章を正字正かなに改めて當然だと思つてをります。そしてそれに對する批判をする權利のある人は存在しないのであります。
或は、日本人が皆正字正かなを使つてゐれば、一々新字新かなの文章を正字正かなに改める必要もなくなる譯ですから、私に文章を改竄されたくなければ正字正かなを使つて下さいとしか申し上げられません。
ふと思ったんですが、
旧かなで発表されているものを新かなに直すのは確かに改竄というか暴挙だと思うけど、
新かなで発表されている作品を旧かなにしちゃうのも同じくらい暴力的だと思います。
『不条理日記』は『不条理日記』であって、『不條理日記』とは違うと思う。
どうなんでしょう?
先日掲示板にてオヲ所屬の亂れありし事話題になりてをられしやうなれば小生五六年前に山田孝雄
博士の五十音圖の歴史に依り其の變遷推移を一覧表に纏めしものを愚頁に送信致し置きましたので
折あらば御覽下さい 手澤本の形ながら小生の在所多賀城市立圖書館に寄託してあります
http://www5a.biglobe.ne.jp/~namie/sub11.htm
アメリカ人の風習(略)尊重を尊重しませんか、と「尊重」がタブっています。
ちなみに私は「平和主義」が一番だとは思っていますが、規定の1と2は要らないというか笑えます。「あらゆる」ものを尊重するのが可能だと本当に思っているんでしょうかね。どうしてこんな余計な文を書くのやら。誰も見ないとでも思ったのかな。
>ペトロニウス樣
もう、銀行のはしごをするしかないでせう。そのうち「二千圓札に兩替してまはる謎の人物」として、業界で話題になつたりして。
>Nisino樣
どうもありがたうございます。隨分長い間更新されてゐないコンテンツでしたが、間違ひの御指摘はNisinoさんが初めてです。誰も讀んでゐなかつたんですね。鬱。
「要素解説」内のbody要素の説明のところに書き間違いがありました。
箇条書きの部分がulタグでなくliタグで囲んであります。
> ニセの二千圓札が出現したさうで、油斷なりません。
さうですか。矢張り出たんですね。まあ、かう云ふのは鼬ごつごですから、幾ら新し
いのを作つても、「贋札」は出るものです。
先日、某駅の北側に新装開店した大手銀行で、弐千円札の両替を頼んだら10枚
迄しか出来ないんだつて、言はれました。どう云ふ訳か聞き質したら、「多くの人に
行渡るやうにする為です。」だつて。其の為に態々両替して其のお札で買ひ物して
ゐるのになあ。
今の人には吾妻ひでおよりもあずまんがの方が馴染みがありますか。「Dr.アジマフ」はハヤカワの文庫かなんかに入つてゐましたつけ? 『ぱるぷちゃんの大冒険』なんて單行本を持つてゐる野嵜です。
私なんぞ、「映畫以後」の世代です。最近見た映畫は「さくや妖怪傳」です。駄目駄目。
toka3akiです。
いつのまにか、話題がSFに行ってしまいましたね・・・。
私は、中坊の頃に星新一を愛読して、それっきりです。
ちなみに、私のお気に入りは「白い服の男」ですね。
あと、「ああ祖国」です。日本を征服する将校が美人の、アレです。
やっぱり、私はSFに向かないなあ(謎)。
木村サマ:
伊福部昭の音楽が結構お好きだとお見受けしましたが?
>histoireはそれより少し理知的な感じがします。
整理して頂き、ありがとうございます。
ちなみに、ストラヴィンスキー作曲「兵士の物語」(仏語)ですと、
元ネタがロシア民謡で、語り手が登場して物語を進行させるのですが、
原題名は"Histoire du Soldat"なんです。
ですので、histoireも「語り」の要素が強いと思ったのですが・・・。
U-Zこと伊藤です。
kotobaseek>趣味>漫畫>ゆうきまさみ
上記カテゴリ内『あ〜る元ネタ集』と同『フレーム表示』が同一のURIとなっているようです。
野嵜さん
「ナマコ」の件、有り難うございました。
野嵜樣
本の紹介、有り難う御座います。早速、ネット通販で注文を……といつても、なかなか難しさうですねこれは。ハヤカワ文庫なら現役の本もありさうなので、まづその邊りを攻めてみます。讀まないで内心小馬鹿にしてゐた(告白)スペースオペラも、改心して讀んでみます。
まつもと樣
はじめまして。私の場合、子供の頃は人類絶滅のテーマよりも、單に恐い化物の出て來る話が好きで讀んでゐた覺えがあります。映畫なら東映の漫畫まつりでなく、東寶の怪獸物を親にせがんだ口です。人類絶滅物でひとつ印象に殘つてゐるのは、中學時代だかに讀んだ星新一の「午後の恐龍」と云ふショート・ショートです。人間が死ぬ間際、人生の記憶が瞬時に見えると云ひますが、それと同じやうに、人類が核戰爭で滅びる當日、生命誕生以來の地球の歴史の幻が世界中に現れると云ふ話でありました。
<引用>
太陽が自殺して夏が終り、草が死に、魚が出て來る。渚でさなぎに大當り。
</引用>
――なんてフレーズが吾妻ひでおの「不條理日記」にありました(諳記してゐるし)。
<引用>
砂漠に不時着した飛行機を直して脱出する映画(なんてんでしたっけ)
</引用>
映畫はわからないのですが、「星の王子さま」が實はそれだけのストーリーだつたりします。
なつかしいっす。
自分は半分暗記するぐらい読み返しました。
で、子供心に世界絶滅を心待ちにしておりました。
今考えると不謹慎きわまりないです。
人類滅亡物はいまだに好きなジャンルで、悪評高い「ウオーターワールド」なんかも個人的には十指に入る名作であるとおもっとります。(ありゃあ時間的な設定と残っている物のバランスに無理がありました)
といいますか、黒沢好きなんかな。
このあたり、ロビンソンクルーソー好きと通底する部分もあるのでSF好きというより「サバイバル物」に惹かれているだけかもしれません。
彼がメロンを発見してかぶりつくところの美味そうなこと美味そうなこと。
で、ずーっと敷衍してゆくと「マーフィーの戦い」とか、砂漠に不時着した飛行機を直して脱出する映画(なんてんでしたっけ)なんかにも惹かれたりして単純構造型機械マニアみたいな物にもつながっていくんではないかと思ったりします。
考えるに、「サバイバル物」に惹かれる人間って多かれ少なかれ心のどこかにアナーキーな感覚があって、自分としては健康的で結構であるとおもっとります。
御就寝前(?)に早速の御返事、恐れ入ります。わざわざサイトにコンテンツを作られるとは、とんだお手間をおかけすることになつてしまひました。でも、樂しみにしてをります!
さうです、あの大森さんです。創元ディックで一番面白いのは大森さんの不眞面目な「解説」だつたと專らの評判。ミステリマニアに『ザップ・ガン』をすすめたら、あとでえらく怒られましたッけ。洒落のわからん奴でした(陰口)。それにしてもウィンダムとは澁いですね。ウィンダムはハヤカワ・ファンタジイの『呪われた村』が面白かつた記憶があります。元々社版の『海底の怪』は飜譯の方が怪しくて樂しかつたです(のち星新一譯『海竜めざめる』として再刊されてゐます)。
アメリカンなSFはスペースオペラに限ります。私個人はイギリスのSFが好きでした(過去形)。と云ふか、新作SFは何年も讀んでゐません。私は昔から保守反動SFマニアであります。高校生の頃に薄汚いハヤカワ・SF・シリーズを古本屋で漁つてゐたくらゐで、新しいものはさつぱりわかりません。
取敢へず、近日中におすすめイギリスSF特集コンテンツを作つてみます。多分今では手に入らない作品しか出てこないやうな氣がしますが、樂しみにしてゐて下さいまし。
自分で自分の話の腰を折るやうですが、ちと脇道にそれます。野嵜さんに蟲の好いお願ひです。
大森望さんは創元推理文庫のP.K.ディック作品などを譯していらつしやる方でせうか。私も子供の頃SFが好きで、ウィンダム『トリフィドの日』やらアシモフ『鋼鉄都市』やらに熱中しました。その後、バラードやブラッドベリを少し讀んだ後(ディックは何だか難しくて餘り讀みませんでした)、遠ざかつてゐたのですが、最近、また讀みたくなつてきました。先日はホーガンの『時間衝突』(創元SF文庫)を樂しみました。「メディアミックスは可能か」で野嵜さんのお勸めSFベストテンのやうなものが無いかと探してみたのですが、見つけられませんでした。古典及び新作の推獎本を幾つか紹介してくださると嬉しいのですが……。「メディアミックス」の資料欄から察するに、スペース・オペラが一番の好みでいらつしやるやうですけれども。
それにしても、どうしてSFや探偵小説や幻想・怪奇小説と云つた樂しい通俗文學はイギリスとアメリカが壓倒的に盛んなんでせうね。スイスやドイツの本屋でも、SFや探偵小説コーナーは英米小説の翻譯物が占據してゐます。
ニセの二千圓札が出現したさうで、油斷なりません。
岡崎樣、有難うございます。御説明を手がかりに、三省堂のクラウン佛和辭典を引いてみました。
▽recit(レシ)(1)お話、物語(2)叙唱
▽narration(ナラシオン)(1)物語・叙述(2)(學校での)課題作文
▽histoire(イストワール)(1)歴史(2)物語(3)作り話(4)出來事(5)悶着
また、研究社の新英和中辭典なども併せて調べると、
recitは英語のrecite(暗誦する、朗讀する、物語る)やrecital(演奏會、物語)と同根で、もとはラテン語の「召集する」から派生。
narrationは英語のnarrate(物語る、話す)と同根で、もとはラテン語「知らせる」。
histoireや英語のhistoryはギリシア語の「知ること、調べることで得た知識」。
……と云ふ事のやうです。recit、narrationはどちらも「語る、話す」と云ふ意味合ひが強いやうですね。「古事記」の稗田阿禮や琵琶法師を聨想すれば好いのでせうか。historieはそれより少し理知的な感じがします。
toka3akiです。
実は風邪ひいてまんねんヽ(@_@)ノ。
木村サマ:
「時間と物語」の元の書名は、"TEMPS ET RECIT"です。ちなみに、一巻の巻末の索引をみると、「歴史物語」が"recit historique"の訳で、「歴史性」が"historialite(仏)|Geschichtlichkeit(独)"、「物語性」が"narrativite"となっております。
"recit"、"narrativite"、"histoire"、この三種類の言葉の使い分けに注意して、この本を読まねばならないようですね。
野嵜サマ:
>まさかYahoo!系の方々は、Fankee_Jrの出現を待つてゐるとか、さう云ふ譯ではないですよね?
え(^^;ゞ?
ニルヴァーナさん:
二千円札に「ニセ」という語感があることには、さすがに気が付かなかったです。
あのサイトはたまたま發見したものですので、私が今現在rogueにはまつてゐるとか、さう云ふ事ではなかつたりします。
昔PC-DOS版のrogueを少しやつた事があります。慥かWindows 3.1のDOS窓が開くかどうか、テストする目的で……。
<引用 出典=『アンカー英和辭典第2版』>
historyの最初の音が落ちたもの
</引用>
historyもstoryも、語源は一緒みたいです。
おまけに、フランス語のhistoireには、
<引用 出典=プチ・ロワイヤル佛和辭典>
histoire
1 歴史、史實;歴史學;歴史書
2 來歴、經歴;身の上話
3 話、物語
4 作り話、うそ
5 問題、事件;もめ事、厄介なこと
6 [つまらぬ]物、こと
</引用>
と云ふ意味があります。事物は、現實にあつた事でもなかつた事でも構はず皆、histoireであり、時として良い意味も惡い意味も持つやうです。
「記憶なんてただの記録」(memory)なんて云ふテーゼもどこぞにありました。
あらら、野嵜さん、rogueをおやりになるんですか。
以前、rogueの進化形のJNetHackをやつて何度も死んでゐます。ゲームはやるん
だけど、非常に下手なんです。
「そして、異文化が表裏一体となつた伝道者は、本屋から本屋へと渡歩いたのであ
つた。」 今更ですが、沖縄サミットとこの弐千円札、今は亡き小渕さんは何を考へ
てこのやうな事を実行に移したんでせう。
明るく透明なニルバーナ様へ
はじめまして、「弐千円札使ひ隊」はこの私が提唱する冗談半分以上のバカげた
企画の一つです。悪貨は良貨を駆逐する。グレシャムの法則が、尚有効か否かは
この企画の成否に全く関りの無い話です。
非常に意味深なハンドルですね。梵語ではニルヴァーナ、パーリ語ではニッバーナ
、漢語宛字は「涅槃」、漢語意訳で「滅度」、仏陀の死の事を云ふんだと思ひます。
衆生は輪廻の迷ひから逃れられず、真の涅槃への道は遠く険しいものです。
ドイツ語の綴りを間違ひました。「Geschichte(ゲシヒテ)」です。
私もリクールは讀んだ事が無いのですが、幕間つなぎに、初心者的疑問を一つ。フランス語では「歴史」も「物語」も同じ「イストワール histoire」と云ふ言葉ですよね。それならフランス人にとつて「歴史は物語である」と云ふ事は自明の理のやうに思はれるのですが、なにゆゑ、わざわざ「歴史は物語である」などと力説せねばならないのでせう。と云ふか、原文では「歴史」と「物語」とはどう書き分けられてゐるんでせうね。ドイツ語(歴史=物語=Geschichite)でも英語(歴史=history、物語=story)でも事情は同じやうなものだと思ふのですが。
まさかYahoo!系の方々は、Fankee_Jrの出現を待つてゐるとか、さう云ふ譯ではないですよね?
先日三省堂東京本店でリクールの本が棚に竝べられてゐるのを目撃しました。買つたのは三浦つとむ選集補卷ですが。例の二千圓札は、三省堂へ。
toka3akiです。
いろんなサイトを紹介して頂いて、ありがとうございます。
とりあえず、あちこち見に行ってみようと思います。
私が身分不相応にもリクールに手を出した理由は、「歴史修正主義批判」論者の「歴史は科学だ」という主張への反発であります。前述のJOHN_VOIDが提示した書籍にも、やはりこのような主張が掲げられており、歴史が物語であると論じることをアナクロと断言していました。どうやら、「歴史修正主義批判」の根拠には「歴史は科学である」という信条が存在するようです。よって、「歴史修正主義批判」への批判は個別的事件に対する取組み以上に、「歴史は科学である」という主張への攻略が必要となるわけです。
歴史学が科学であるのは理解できても、歴史なるものは科学によって構築されるという主張には、私は決して納得できません。例の石器捏造事件でも、例の考古学者の捏造結果が歴史化されかけたのは科学上の成果ゆえではありませんし(彼は、科学上の成果を記述化する「報告書」をマトモに作成していない)。しかし、個別的な例の列挙には限界があります。よって、物語と歴史に関する理論を学習する必要があると、私は考えました。
現在のところ、まだ「歴史」に関する記述まで読み進めてはいませんが、「時間と物語の循環性」に関する記述は結構楽しいです。哲学書に読み慣れていないこの身には少々大変ですが。やはり、問題意識がなければリクールの書を閉じてリキュールに逃げたかも知れません(謎)。
それと、
彼らが資料を「読めない」のか、それとも「読まない」のか、なかなか判断するのは難しいです。
ただ、彼らが「客観的事実」が「主観」による記述であることをなかなか認めないのは、「客観的事実」がなければ自己同一性を保てないほど自己が虚弱だからです。彼ら自身の正義に対する自己懐疑は、彼らの自己同一性を保つためにはなかなか害悪です。そげな虚弱な自己を強化し得ないのは彼らの能力が問題だったりするので、あえて「読めない」と解釈しました(^^;)。
INTRATECさん:
覚えていませんでした、申し訳ありませんm(_~_)m。
渡邊さん:
Yahoo!掲示板は、トピックを慎重に運用しないとコアな話は難しいと思います。変な人たちが入り込んで来る事が多いので、そげな連中を注意して扱わないとすぐに荒れます。
2ちゃんねるは、私は好きではないです。デフォルトで名無しの権兵衛でカキコできるという場所の情報を、私は信用しましぇん。
16日のAngelfireの件、blockquoteの終了タグが開始タグになってます。
リクールの本を私、讀んだ事がないのであります。
リクールとリクルートも良く混同されさう(されない?)。
>「弐千円札使ひ隊」の実行宣言ありがたうございます。まさかとは思つてをりま
したが、野嵜さんまでご賛同なされるとは恐縮してをります。
ところで、「弐千円札」と「ニセ円札」は非常に発音が似ています。
実際、ある英語圏の外人に尋ねると、両者の区別は難しいらしく、同氏は懸命になって
「ニセ(ン)エンサツ、ニセ(ン)エンサツ、ニセ(ン)エンサツ、・・・」
と繰り返し発音練習をしていました。聞いている私も何がなんだか区別がつかなく
なってきました。日本国大蔵省は円の国際化を夢見ていますが、「弐千円札」が
流通しないのはこういった背景があるからではないでしょうか。
まさに、「人間の経験の歴史性は、本質的に物語性としてしか言語化されない・・・」
(リクール「物語と時間」・訳者あとがき)ということだと思います。
で幾つかひつかかりますね。http://www.google.com/search?q=%83%7C%81%5B%83%8B%81E%83%8A%83N%81%5B%83%8B&meta=lr%3D%26hl%3Dja
まずは野嵜殿へご挨拶、お久しぶりで御座います。お元気ですか?
tokaさん お久しぶりです と言ってもYAHOO!で何度か言葉を交わした
だけですので私のような無名は覚えてらっしゃらないでしょうけど^^;
それに今はもう野嵜殿と同じく、書き込んでおりませんので。
>まさに、「資料は読めるが、プロセスは読めない」連中ばっかり。
あの阿呆どもの汚いところは、「読めない」ではなく「読まない」ところに
有ると思うのですが、如何でしょうか?
僕はあまり関心がないのですが、
たまにいくサイトで検索してみました。
これが結果です。
もしよかったら参考にしてみて下さい。
また上記サイトにはニュースグループなんかもあるので、
哲学のコアな話がしたいなら参加してみてもいいかもしれません。
Yafoo!とか2chって重いので僕はほとんど読んだことがないんですが、
ああいうところで哲学の話なんて出来るんでしょうか?
私がもっとも気に懸けているのは、
「歴史修正主義批判」のための具体的な「客観的な事実」tokaが、
彼らの「主観」によって「記述」されてしまっている現実ですね。
しかも、それらの「記述」は「客観的だ」と信奉してやまない。
根本のレベルで誤解をはらんでいる「記述」では、
これを展開してもロクな結論を導出する事はできんでしょう。
まさに、「資料は読めるが、プロセスは読めない」連中ばっかり。
>ポール・リクールは自分もよくしりません。
>でも、きっといますよ。
ところが、「リクール」等をgooで検索しても
なかなか良いHPが引っかからないのです。
引っかかるのは、歴史における物語を強調する言動に対して
「歴史修正主義を利する」tokaいった警告文ばかり。
「歴史は科学である!」と信奉する人にとっては、
やはり鬼門なのかも(T_T)。
「人間の経験の歴史性は、本質的に物語性としてしか言語化されないのであり、歴史的時間は物語によってしか表現されない。歴史が物語るのをやめたとき、歴史は社会学など、その他の社会科学に解体するときである。」(リクール「物語と時間」・訳者あとがき)
野嵜様へ、
「弐千円札使ひ隊」の実行宣言ありがたうございます。まさかとは思つてをりま
したが、野嵜さんまでご賛同なされるとは恐縮してをります。
お札の意匠と云へば、聖徳太子が大変に有名ですね。今の壱万円札と比較し
ても、明かに聖徳太子の意匠のはうが貫禄が有ります。
聖徳太子と云へば、「第四次百円」と呼ばれる戦後直ぐに流通してゐた百円札
ですね。此れは最もお気に入りの紙幣の一つです。最近やつてゐる新宿を舞台
とした如何様麻雀漫画の深夜番組で、取引きの時に出て来るやつです。
野嵜さん
普通に見えるようになりました。
ご面倒おかけしました。
とかさん
おやき談義以来です。
「客観的事実」が存在すること自体は、「物語」の内部に自分が存在することの証であると思いますので、僕はあんまり気にならんです。
しかし、そこでいう「客観的事実」自体が導き出す「普遍的な善悪の価値判断」ってゆーのは僕自身の「物語」と全く無関係であるにもかかわらず、単一の目的に対して元気よく邁進する間抜けな行進が連想されて気分悪いです。
足下に幾多の価値基準を踏みにじっていることにも気付かない思想の天真爛漫な明るさは、わかりやすければすべてよしという大衆迎合イデオロギーの最大公約数でありますから、そこにはつまるところ感情論しかありません。
もっといえば自分の感情しかありません。
さらにいえば、最終的に行き着くところもっともわかりやすい価値基準「金」に行き着きます。
学級会レベルの「自己責任」を振り回しながら、グローバリズムを「金」で判断しようとする。
そこには欧米がプラグマティズムに至るまでの紆余曲折は全くない。
僕は前々から思っているのですが、彼ら(だれだ?)は正解が明確に示してある文章しか読めないのではないのでしょうか。
資料は読めるが、プロセスは読めない。
だから、考え方の議論はできない。ていうか、しない。
やっぱyahooダメかも(笑)。
ポール・リクールは自分もよくしりません。
ぼか、基本的につまみ食いでしか哲学書の類を読んでおりませんので。
でも、きっといますよ。
オタッキーなひと多いですから。
>まあ、世の中は全て嘘で出來てゐるので、最初から史的唯物論が崩壞してゐたつて唯物論者は氣にしません。實際のところ、共産主義では戰術的に嘘を言ふ事は「良い事」だとされてゐますから、幾ら彼等の「嘘」を指摘しても、連中さつぱりこたへません。それゆゑに「うぜえ」譯であります。呵々。
確かにそのとおりです。浅田彰の言動を見ておると全くそのとおりです。ちなみに同氏は唯物論を自称しております。しかし、気をつけるべきです。なぜなら、すべての物は燃えるという当たり前の事実を彼は理解していないからです。本当に注意した方がいいよ。
野嵜様
確かにキリスト教を燃やして灰にしようという考えはなぜかボクには生じません。ボクがキリスト教徒でないにもかかわらずです。しかし、キリスト教と関連して発達したスコラ哲学は必要ならばどうにでも燃やして灰にせねばならないと感じるのです。
これは、一体なぜでしょうか。
これは、パトスとしてのキリスト精神がこんにゃくか豆腐のごときものであるからです。一方、スコラ哲学は体系として存在する。体系は燃やせば建築物の如く発火するのです。史的唯物論もそうなんです。体系として、しかも誤謬のうえに成り立つ体系として存在するからボクはそれを燃やすんだ。だから、ボクは「蟹工船」のようなスピリットを燃やそうとも思わないし、空想的な理想主義も単に詩的な叫びとしてあるだけなら燃やしはしない。しかし、それが社会運動だとか、理論体系になったら、それが一抹の誤謬ですら含む限り、その誤謬を発火点として燃やしちゃうんだ。
「我々日本人には絶對の觀念がないから、絶對主義否定の共産主義を本當に嗤ふ事が出來ません」と野嵜様はおしゃいます。その含意は尽くしがたいものかもしれませんが、パトス的なキリスト教、それも特に原始キリスト教と公式化され、イデオロギー化された史的唯物論を比較することはそもそも出来ません。誤謬のある体系がそこにある限り、ボクでなくても誰かが発火させます。言わば自然発火です。ついでに、日本特有の印象批評的言説も、すべて藁か落ち葉同然に焚き火する必要があります。小林秀雄もその中に放り込むべきかもしれません。これは、「我々日本人には絶對の觀念がない」という野嵜様のご見解にボクも同意するからです。我々日本人が嗤へるようになるためには、こういったゴミは一気に焼却する必要があります。
ボクは「明るく透明なニルバーナ」です。しかも日本人です。よって、次のように言えるでしょう。「我々日本人には絶對無の觀念を持つため、本當に嗤ふ事が出來る」。何もかも燃やして灰にするから。
野嵜様
確かにキリスト教を燃やして灰にしようという考えはなぜかボクには生じません。ボクがキリスト教徒でないにもかかわらずです。しかし、キリスト教と関連して発達したスコラ哲学は必要ならばどうにでも燃やして灰にせねばならないと感じるのです。
これは、一体なぜでしょうか。
これは、パトスとしてのキリスト精神がこんにゃくか豆腐のごときものであるからです。一方、スコラ哲学は体系として存在する。体系は燃やせば建築物の如く発火するのです。史的唯物論もそうなんです。体系として、しかも誤謬のうえに成り立つ体系として存在するからボクはそれを燃やすんだ。だから、ボクは「蟹工船」のようなスピリットを燃やそうとも思わないし、空想的な理想主義も単に詩的な叫びとしてあるだけなら燃やしはしない。しかし、それが社会運動だとか、理論体系になったら、それが一抹の誤謬ですら含む限り、その誤謬を発火点として燃やしちゃうんだ。
「我々日本人には絶對の觀念がないから、絶對主義否定の共産主義を本當に嗤ふ事が出來ません」と野嵜様はおしゃいます。その含意は尽くしがたいものかもしれませんが、ロゴス的なキリスト教、それも特に原始キリスト教と公式化され、イデオロギー化された史的唯物論を比較することはそもそも出来ません。誤謬のある体系がそこにある限り、ボクでなくても誰かが発火させます。言わば自然発火です。ついでに、日本特有の印象批評的言説も、すべて藁か落ち葉同然に焚き火する必要があります。小林秀雄もその中に放り込むべきかもしれません。これは、「我々日本人には絶對の觀念がない」という野嵜様のご見解にボクも同意するからです。我々日本人が嗤へるようになるためには、こういったゴミは一気に焼却する必要があります。
ボクは「明るく透明なニルバーナ」です。しかも日本人です。よって、次のように言えるでしょう。「我々日本人には絶對無の觀念を持つため、本當に嗤ふ事が出來る」。何もかも燃やして灰にするから。
>T.岡崎さん 言葉足らずで申し訳ありません。matumoto11です。
やっぱりそうだったんですね、お久しぶりです。
>政治カテにヴィト初登場でしたね。
あれは、言葉のうわっつらを流用しただけでして、お恥ずかしい限りです。
ただ今、あそこでは「客観的事実」の有無について論戦を闘っております。
「客観的事実」の存在に固執するのが、「歴史修正主義批判」論者の特徴です。
それゆえ、「客観的事実」に対して懐疑を浴びせるのが、私たちの「戦術」です。
ちなみに、「日本史」カテではJOHN_VOIDなる人物が、
「客観的事実」に固執するあまりに撃沈しておりまする。
>イデオロギーにもなっていない感情論を振り回す人間も多いですが、
やはり、政治への衝動なるものは人間の根源に起因するがゆえでしょう(笑)。
>哲カテなんかにはまだ結構面白い人もいるので
そうですか。
最近、このあいだ京都賞を受賞したポール・リクールの
「時間と物語」を読み始めております。
そちらに、リクールを知っている方がいればうれしいのですが、
「歴史が物語とは、何たるアナクロ!」といわれてしまいそうで・・・。
「偉人」と云ふ適切な言葉がありました。しかし、「偉人」なんて言葉、最近は子供向けの本でも餘り見掛けなくなつたのではないでせうか。
お札の肖像畫候補に森鴎外が擧がつたけれども、「軍人」なので落選したと云ふ話を讀んだ覚えがあります。本當なのでせうかね。
イギリスのポンド紙幣は表にすべてエリザベス女王、裏に歴史的著名人の顏が印刷してあります。日本で天皇陛下の肖像を入れるなんて云ふのは無理でせうね。因みに、通貨統合に未參加のイギリスやスイスなどを除くヨーロッパ主要國では、再來年から通貨が「ユーロ」に移行するのですが、基本的なデザインは統一するものの、肖像は各國毎に自由に入れて構はないさうです。イギリスは通貨統合に入るかどうか國内でもめてゐるのですが、もし女王の肖像が紙幣から消え去るとしたら、反對論が壓倒的に優勢になつたでせう。
野嵜樣、お早う御座います。
日記の方を見て驚いたのですが、昨日神保町へ行かれたのですね、私は12時30分〜16時30分まで「ウロツイテ」ゐました、若しかしたら本當にすれ違つてゐたかもしれませんね。
「福田恆存全集」「飜譯全集」共に47000圓で賣つてゐましたが、新品を買ふのと餘り變りませんね。
それから、お札の事ですが、野嵜さんの年齢だと聖徳太子より福澤諭吉ではないのでせうか。
>「理解出來ないから間違ひである」と云ふ「トンデモ理論」
「オッカムの剃刀」といふ言葉が腦裏に浮びました。
(オッカムの剃刀=或る物事を説明する假説が二つある場合、より複雜な説の方が眞實であると
證明されない限り、より單純な説を採れ。大概そちらが眞實である。)
オッカムの剃刀とは本來、「自分だけにとつて」單純にわかる説の方が眞實であるといふ意味で
は決してないのですが、さう誤用される事もあるやうな……
まあ、世の中は全て嘘で出來てゐるので、最初から史的唯物論が崩壞してゐたつて唯物論者は氣にしません。實際のところ、共産主義では戰術的に嘘を言ふ事は「良い事」だとされてゐますから、幾ら彼等の「嘘」を指摘しても、連中さつぱりこたへません。それゆゑに「うぜえ」譯であります。呵々。
何でもわかつてしまふ共産主義よりは、核心部分が神秘に包まれてゐるキリスト教の方が嘘としては上等なものであります。キリスト教の根幹である神とは即絶對的な存在であり、極めて強力な存在です。西歐人はこの強力な絶對者の概念を知つてゐるから、相對的な共産主義に対抗する事が出來ます。しかしながら我々日本人には絶對の觀念がないから、絶對主義否定の共産主義を本當に嗤ふ事が出來ません。
なほ、日本人は安易に絶對の概念を否定しますが、そんなに簡單に否定出來はしません。絶對的なるものはとにかく頑丈なものであります。共産主義は1世紀持ちませんでしたが、キリスト教は20世紀も持つてゐます。ちなみに、日本人がキリスト教の神を否定する場合に必ず言出すのが「理解出來ないから間違ひである」と云ふ「トンデモ理論」だつたりします。
ちなみに、マルクスが「民衆の阿片」たる宗教を取上げたら、共産主義が「代用阿片」になつてしまつたのは「史的必然」であります。
T.岡崎さん 言葉足らずで申し訳ありません。matumoto11です。
いつもROMさせてもらっております。
政治カテにヴィト初登場でしたね。
あの辺にはイデオロギーにもなっていない感情論を振り回す人間も多いですが、ホントになんの疑問もなくああいったことを言っているのか自分にはよくわからんです。
野嵜さんなんかは、もう完全に見限っちゃったみたいですし自分が他に知ってる人も殆どいなくなっちゃいました。
哲カテなんかにはまだ結構面白い人もいるので遊ばしてもらったりしてます。
自分は基本的に天皇関連トピぐらいにしか出ないのですが今の状況を見ている限り、皇室も安泰で大慶であります(笑)
>このような諧謔精神が欠如すると、やはり見るに耐えない修羅場になります。
芸人魂すか?(笑)
また、うちにも遊びに来て下さい。
まつもとさん:
>とかさん、こんちわ(といっても、tokaさんは自分のことは知らないと思いますが)
もしかして、"matumoto11"さんでしょうか?違っていたら、失礼しました。
>「ブラックとかちゃん」なかなか笑えます。
>しかし、なんであんなになっちゃったんでしょう、yahoo。
ありがとうございます。
やはり、論争を冷静に行おうと思うと、
自分を見世物にしてみたくなる衝動にかられます(謎)。
このような諧謔精神が欠如すると、やはり見るに耐えない修羅場になります。
明るく透明なニルバーナさん:
>次は構造主義を燃やして灰にする予定です。
個人的には、カル・スタやポストコロニアルあたりが宜しいかと・・・。
「偉人」と云ふ適切な言葉がありました。しかし、「偉人」なんて言葉、最近は子供向けの本でも餘り見掛けなくなつたのではないでせうか。
お札の肖像畫候補に森鴎外が擧がつたけれども、「軍人」なので落選したと云ふ話を讀んだ覚えがあります。本當なのでせうかね。
イギリスのポンド紙幣は表にすべてエリザベス女王、裏に歴史的著名人の顏が印刷してあります。日本で天皇陛下の肖像を入れるなんて云ふのは無理でせうね。因みに、通貨統合に未參加のイギリスやスイスなどを除くヨーロッパ主要國では、再來年から通貨が「ユーロ」に移行するのですが、基本的なデザインは統一するものの、肖像は各國毎に自由に入れて構はないさうです。イギリスは通貨統合に入るかどうか國内でもめてゐるのですが、もし女王の肖像が紙幣から消え去るとしたら、反對論が壓倒的に優勢になつたでせう。
野嵜樣、お早う御座います。
日記の方を見て驚いたのですが、昨日神保町へ行かれたのですね、私は12時30分〜16時30分まで「ウロツイテ」ゐました、若しかしたら本當にすれ違つてゐたかもしれませんね。
「福田恆存全集」「飜譯全集」共に47000圓で賣つてゐましたが、新品を買ふのと餘り變りませんね。
それから、お札の事ですが、野嵜さんの年齢だと聖徳太子より福澤諭吉ではないのでせうか。
>「理解出來ないから間違ひである」と云ふ「トンデモ理論」
「オッカムの剃刀」といふ言葉が腦裏に浮びました。
(オッカムの剃刀=或る物事を説明する假説が二つある場合、より複雜な説の方が眞實であると
證明されない限り、より單純な説を採れ。大概そちらが眞實である。)
オッカムの剃刀とは本來、「自分だけにとつて」單純にわかる説の方が眞實であるといふ意味で
は決してないのですが、さう誤用される事もあるやうな……
まあ、世の中は全て嘘で出來てゐるので、最初から史的唯物論が崩壞してゐたつて唯物論者は氣にしません。實際のところ、共産主義では戰術的に嘘を言ふ事は「良い事」だとされてゐますから、幾ら彼等の「嘘」を指摘しても、連中さつぱりこたへません。それゆゑに「うぜえ」譯であります。呵々。
何でもわかつてしまふ共産主義よりは、核心部分が神秘に包まれてゐるキリスト教の方が嘘としては上等なものであります。キリスト教の根幹である神とは即絶對的な存在であり、極めて強力な存在です。西歐人はこの強力な絶對者の概念を知つてゐるから、相對的な共産主義に対抗する事が出來ます。しかしながら我々日本人には絶對の觀念がないから、絶對主義否定の共産主義を本當に嗤ふ事が出來ません。
なほ、日本人は安易に絶對の概念を否定しますが、そんなに簡單に否定出來はしません。絶對的なるものはとにかく頑丈なものであります。共産主義は1世紀持ちませんでしたが、キリスト教は20世紀も持つてゐます。ちなみに、日本人がキリスト教の神を否定する場合に必ず言出すのが「理解出來ないから間違ひである」と云ふ「トンデモ理論」だつたりします。
ちなみに、マルクスが「民衆の阿片」たる宗教を取上げたら、共産主義が「代用阿片」になつてしまつたのは「史的必然」であります。
T.岡崎さん 言葉足らずで申し訳ありません。matumoto11です。
いつもROMさせてもらっております。
政治カテにヴィト初登場でしたね。
あの辺にはイデオロギーにもなっていない感情論を振り回す人間も多いですが、ホントになんの疑問もなくああいったことを言っているのか自分にはよくわからんです。
野嵜さんなんかは、もう完全に見限っちゃったみたいですし自分が他に知ってる人も殆どいなくなっちゃいました。
哲カテなんかにはまだ結構面白い人もいるので遊ばしてもらったりしてます。
自分は基本的に天皇関連トピぐらいにしか出ないのですが今の状況を見ている限り、皇室も安泰で大慶であります(笑)
>このような諧謔精神が欠如すると、やはり見るに耐えない修羅場になります。
芸人魂すか?(笑)
また、うちにも遊びに来て下さい。
まつもとさん:
>とかさん、こんちわ(といっても、tokaさんは自分のことは知らないと思いますが)
もしかして、"matumoto11"さんでしょうか?違っていたら、失礼しました。
>「ブラックとかちゃん」なかなか笑えます。
>しかし、なんであんなになっちゃったんでしょう、yahoo。
ありがとうございます。
やはり、論争を冷静に行おうと思うと、
自分を見世物にしてみたくなる衝動にかられます(謎)。
このような諧謔精神が欠如すると、やはり見るに耐えない修羅場になります。
明るく透明なニルバーナさん:
>次は構造主義を燃やして灰にする予定です。
個人的には、カル・スタやポストコロニアルあたりが宜しいかと・・・。
史的唯物論についての議論が済んだら、次回は構造主義の嘘を暴きたて、それを燃やして灰にする予定です。その後は、記号論かな。いろいろ燃やすものはあるな。
皆さん、とっても元気があって良いですね。感心します!そこで、ボクもさっそうと登場!ボク、ニルバーナといいます。片っ端から人類社会における誤れる知的廃棄物を燃やして灰にします。
今回は史的唯物論を燃やして灰にします。そんなものは歴史的にはとっくに崩壊したと言う人もいるかも知れないが、歴史的に崩壊しても、それは実際のやり方がまずかっただけで、もう一度やり直せばいいんだとか、そういった馬鹿なことを言う奴はきっと出てきますよ。だから、理論的に完全に葬り去ることが重要!そうすれば、そんな考えに基づく学派や政党もきれいさっぱり消滅!そして、明るいニルバーナが近づいてくるんだね。
さて、史的唯物論は、生産力と生産関係の矛盾が両者の結合体である社会構成体の変革につながると言ってますね。あの論客(故)アルチュセールですらそのような見解を持っていました。まあ、晩年の手記ではほとんど自分でもわからなくなって、マルクスを批判していましたがね。一方、(故)広松渉氏は、そもそも両者を一体のものとみなし、この一体のものをポテンシャルの相において見ると生産力、共時的関係の相から見ると生産関係になると主張しました。
皆さんは、どちらのほうが正しいと思いますか。
私は結論としては広松説が正しく、その結果、広松氏の意に反して史的唯物論の理論的破綻が明確になったと考えます。
まず、オーソドックスな前者の見解は、生産関係と切り離して生産力という概念を抽象的に想定しているので初めからおかしい。生産関係と切り離された結果として想定される生産力とは何ですか? 歴史的には蒸気機関のような動力機関やその発達のことを指すと言うのでは、答になってません。なぜならば、動力機関も、それを発明した人間がその社会関係のなかで得た知識に基づいて発明されているわけですし、動力機関のすべての部品や燃料等もすべて分業関係のなかで入手されているんです。どこまでいっても生産関係という概念を捨象しきれない。生産力を規定するものは生産関係そのものなんです。もし切り離せるというのであれば、最後はこの宇宙のエネルギー自体が生産力ということになってしまいます。これは物理法則として一定です。実際には生産関係のなかに生産力を規定するセクターとそのセクターが生み出すエネルギー等を利用して生産活動や消費活動を行うセクターが別にあるということです。すべて生産関係の問題なんです。だから、この点では広松説の方が正しいということです。
では、広松説はどこがまずいのか? 要はこの考えを押し進めていくと、矛盾ということは無くなる訳です。そもそも同じもの(社会構成体)をどういった相から見るのかで、生産関係と生産力という概念が事後的に抽出されてくる訳ですから、生産関係と生産力の間に矛盾など無いわけです。この現象界における存在者(存在物)の変化をすべて矛盾という概念で理解すべきだというのであれば、風が吹くのも、地球が自転するのも、猫が散歩しているのもすべて矛盾に基づく現象ですよ。しかし、何がどう矛盾しているんですか。さっぱりわかりませんね。弁証法なんて何も関係の無いことです。広松説は正しいが、同氏自身が史的唯物論的な歴史観を完全に否定し去るところまで態度を鮮明にしなかったところがあまりにも中途半端だったということです。イデオロギーという言葉を乱用する史的唯物論者達自身がイデオロギーに汚染されているのです。広松氏がいくら漢語でごちゃごちゃ著述されていても、本質はそういう簡単なことです。
さて、いかがでしょう。この件をめぐる掲示板上の議論は大歓迎です。皆さんのご意見をお待ちしています。
とかさん、こんちわ(といっても、tokaさんは自分のことは知らないと思いますが)
しかしながら、見ることができませんでした。
うーん残念。
「ブラックとかちゃん」なかなか笑えます。
しかし、なんであんなになっちゃったんでしょう、yahoo。
toka3akiです。最近は、「黒ノ巣党(会に非ず)」なる組織をでっち上げて、
"black_toka3aki"というHNも使用しています。
「定家仮名遣」について自分も調べるべく、gooで「定家仮名遣」を検索したら、
下記のURLに辿り着いてしまいました。やはり、こちらで勉強させて頂くのが正しいですね。
それと、
例のXML、野嵜サマも御覧になったのですね。恥ずかしい限りです。
ちなみに、和歌のXML化はgawkを使っております。あまりに原始的で情けないですが。
ゆえに、WindowsのDOS窓は、私も必須です(爆)。
<引用>
「和字正濫抄」には、あ行の「お」とわ行の「を」の所屬を入違へるといふ誤があつた。
</引用>
<引用>
「お」の正しい所屬は本居宣長の「をお所屬辨」で確定した。
</引用>
自分で書いておいて忘れてゐました。私も惚けてゐますね。
野嵜樣、こんばんは。
私の持つてゐる、小西先生の本には「ア行がヲ」「ワ行がオ」の五十音圖を「契沖、荷田春滿、賀茂眞淵というような大学者たちでも、みなこれが正しい形だと思いこんでいたらしい。こういった形の五十音図に疑いをいだいて、「オ」と「ヲ」の所属はもっと合理的でなくてはならないと考え、もとの形にもどしたのが、本居宣長であった。宣長は、いろいろ研究の結果、ア行に「オ」ワ行に「ヲ」のあるのが正しい五十音図だと推定した。たいした学力だと思う。いまでは12世紀の五十音図もいくつか発見されて、宣長の説が正しいことはどの学者も認めているが、そういった古い写本がまだ世に出ないころ、理論的に正しい形を割り出したのだから、えらいものである。」と書いてあるのですが、この本(「国文法ちかみち」)は昭和58年版で尚且つ、文中に「・・らしい」とあります。矢張り、オとヲの違ひを正したのは契沖なのでせうか。
事實誤認をしてゐるのは、あなたではないかな、「読者」氏よ。と云ふか、うざい。來るな。
書込みありがたうございます。またいらつしやつて下さいまし。
>toka3aki樣
定家假名遣は定家・行阿以後契冲以前に行はれた表記であります。當時までに存在した表記の慣例を記録したやうなもので、特に定家・行阿以後の増補分に「誤り」が多數存在します。行阿の増補に「かほる」(匂薫)「枝もたははに」(撓)「ことはり」(理)「うふる」(栽植)の誤りがあります。
なほ、「お」と「を」の逆轉は、五十音圖そのものに存在したものです。これは契冲に訂正されるまで存在した誤りであります。
>矢澤樣
「人を殺すのは本當に惡い事なのか?」、死刑制度が日本には存在するではないか、人を殺すのが惡い事ならば人を殺す死刑も惡い筈ではないか、「護持院原の敵討」では途中でゐなくなつた宇平よりも本意を遂げたりよと九郎右衞門の方が立派ではないか、と説き起し、「無知で無意味な、何の價値もない、意地惡で病身な」一人の金貸婆を殺しても「全人類への奉仕、共同の事業への法師に身を捧げれば」許されるのではないか、と考へて殺人を犯した『罪と罰』のラスコーリニコフが結局罪の意識から逃れられなかつた事を述べ、「一匹と九十九匹と」の議論を通じて「政治と道徳とには違ひがある」と云ふ結論を出す、と云ふ授業を松原先生がかつて大學でなさつた事を思ひ出しました。
>読者を名乘る掲示板荒しへ
さう云ふ抽象的な「批判」にもなつてゐない發言は禁止。匿名匿IPも禁止。
事実誤認があるよ。
以前に匿名希望と匿名希望(K)と云ふ名称で、本掲示版に記述した者です。下記に西部邁氏に関する記述が掲示されてゐます。本日授業が休講だつたので、本掲示版に私も記述させて下さい。
先日、祖父が西部邁著の「国民の道徳」を購入したので、祖父から借用して私も通読したのですが、本書には「道徳」の本質に就いて、深く追究して論述した部分が、頗る少ないやうに私は
思ひました。取分け「殺人」に関する項目では、西部邁氏は「戦争における殺人は例外として」等と戦争に於る殺人を度外視されるが、縦しんば戦争であつても、吾々が他者を殺す事は許されぬ筈であり、殺人は人間の本質を否定する筈であると、私は思ひます。論理に対しては論理で対応するべきであり、暴力に対しては暴力で対応するべきであります。縦しんば暴力であつても、吾々には他者の自由や権利を奪ふ事は許されても、他者の生命を奪ふ事は許される筈は無く、人間が常に意識せざるを得ない正邪善悪に反する事になる筈です。
殺人とは他者を殺害する事であり、他者の生命を奪ふ事でありますが、肉体的能力の同等の者が互いに争つて、その結果殺害したならば、その殺害は正邪善悪を否定しませんが、吾々人間は頗る相対的な存在であり、肉体的能力の同等の者が存在する事は有り得ない筈であります。ならば吾々人間には、縦しんば他者の自由や権利を奪ふ事を許されるとしても、暴力に対しては暴力で対応するべきであり、「暴力で対応する事」と「他者の生命(生涯)を奪ふ事」は同等で有り得る筈は無く、同等では有り得ぬ筈であるのならば、他者の生命を奪ふ事は「卑怯」であると云ふ事になり、「吾々人間は常に正邪善悪を意識せずにはゐられない」のであるから、「卑怯」とは「正しくない事」であり「悪しき事」であるから、吾々は他者を殺害してはならぬ、といふ論理になると思ひます。
本書には経済関係の記述が多く、高校生等の読者には通読するのが相当苦しいだらうと思ひますが、「国民の道徳」と云ふ外題の書物が刊行されることによつて、書店に入店した人々が
「道徳」に対する疑問を若干抱くと思ひます。吾々が道徳に対して疑問を抱く事は非常に重要ですが、本書の序文は西部邁氏の過去の経験であり、「昨日の自分よりも今日の自分のはうがさらに向上している」のやうな道徳の定義が記述されなかつた事を、私は残念に思ひました。
toka3akiです。初めてカキコします。
最近になって和歌を勉強しております。
「定家仮名遣い」というのが有るそうですね。
「お」と「を」が逆転したり、
「植ゑ」が「植へ」と記述したりするケースでしょうか?
#余談ですが、あのザコちゃんは最近万葉仮名が読めると吹聴しております。
西部氏は福田さんから直々に「後繼者」と言はれたさうですが、別に福田さんの評價を絶對視する事もないと思ひます。大體、福田さんは、かの日本共産黨を禮讚なさつたり、アンチ正字正かなの早稻田大學教授大井邦雄氏をお襃めになつたりしてゐるんです。福田さんの「賞讃」を眞に受けてはいけません。
ちなみに「大學院の受驗で答案を正字正かなで書いた奴は全員落せ」と大井氏が主張したと云ふのは、一部で有名な事實です。
いつも御世話になります。
その骨牌は、どうやら契冲の假名遣以前の定家假名遣に基いてゐるやうな氣がします。寧ろ底本を變更しないで、その骨牌の表記を嚴密に再現した方が、資料的に價値が出るのではないでせうか。
オマエモナー。
お前、厨房だらう?
逝つて良し。
馬鹿の一つ覚えみたく朝日批判している山本夏彦
自分を愛国者とでも思っているのか?
そんな暇があったら自衛隊に入って北朝鮮軍と戦って死ね!
貴様の愛国心とやらを行動で示してみろ!
この変態ストーカー野郎!
野嵜樣、こんにちは。
調べるのが遲く成り、聯絡も遲れて仕舞ひました。私が持つてゐる享保時代の百人一首の骨牌ですが、假名遣ひは他にも澤山間違ひがありました、「お」と「を」は殆どが逆です、莫迦な話しですが、氣にしないで、漢字に直したり、假名を直したりしてゐました。まあ、流石に百人一首ぐらいは頭に入つてゐるので、良く見ないで校訂してゐたと言ふ事もあるのですが、自分の注意力のなさに愕然としました。他の歌集は來週本を買ひに行けさうなので(古本)、入力ミスを直しながら底本の變更をします。
それと、「國民の歴史」の姉妹本「國民の道徳」と言ふ本が出ました、著者は西部邁です。自分の金で買ふのは嫌だつたのですが、偶々圖書券を2000圓分貰つたので今日買ひました、矢張り酷い本です、詳細はそのうち私のサイトに書く積りですが、この人、大磯の福田先生のお宅を何度も尋ねて、何を教はつたのでせう、この人も「福田門下」の一人なのでせうか。
ここ數年、文庫本の末尾にも「讀みやすさを考慮し、漢字をかなに開きました」式の文言が入るやうになつて、それで一般化したのではないかと推測します。實際に最近の業界人は「開く」と言ひますが、昔から言つてゐる事なのかどうか、どうも怪しい。
しかし、「改める」と云ふ言ひ方が正確なのだし、「開く」では良い意味に取られ兼ねないので、私は反對ですね。編緝者が作品の漢字をかなに改めるのは改竄だし、作家が漢字を使はずかなを多用するのは原稿料の荒稼ぎです。どつちにしろ良い事など無い譯で、それをあたかも良い事であるかのやうに見せかけるのは、よろしくないと思ひます。そして、さう云ふ言葉のごまかしを最もやつてはいけないのが物書きです。