「言葉 言葉 言葉」の野嵜です。
笠井さんの投稿に対して、ひとこと述べさせていただきます。
PCでは多くの正漢字が使へない、正漢字が読めない人がゐる、といふ理由で私も#新字#正かなを使つてをります――そしてそれは、江藤學神さんのおつしやる通り「妥協」です。飽くまで新字(略字・常用漢字)の使用は「妥協」であることを意識しておかねばなりません。あるいはせめて、さういふ意識を持つことが重要なのです。
私は使へるものなら #正漢字# 正かなづかひを使用するのが望ましいと思ひます。新字は論理的にでたらめで、論理的にものを考へるのに向かないからです。「現代の字も決して悪いものでは無い」といふ笠井さんの意見は、飽くまで俗論の受売りでしかありません。論理的・歴史的に、それ以上に #道徳的# に「現代の字は悪いもの」なのです。
国語の問題とは、言葉を使つてものを考へることの問題にほかならない。簡略化された字を使へと言ふことは、字を書くのに手を抜けといふことであり、言葉でものを考へるときに手を抜けといふことに通じます。極端なことをいへば、言葉を使ふのに手抜きをせよといふことは、ものを考へるな、といふことと同じです。
「旧字体がなくなることで國語の需要性はほぼ無くなった」と笠井さんはおつしやいました。しかし、そもそも、漢字を教へる巧いやり方を考へずに、漢字を「簡単」にして教へる手間を省くとは、教育を理解しない人の発想なのです。たとへば、方程式や微分積分は生活で使はないから数学を廃止しよう、とは言はないのです。教育とは、先人がこれまでに作り上げてきた文化を受取り、後の世の人に伝へていくためにあるのです。先人が使つてきた漢字なのだから、#使ひ続けること# が大事なのです。
しかし「新字」を使はねばならないことが多い。ならば新字の使用は「妥協」であると意識しなければならない――といふのは、正漢字を使はないことに #後ろめたさ# を感じることは、道徳的なことだからです。人は正しく生きようとしなければならないが、現実には正しく生きられない、しかし正しく生きたい――さういふ葛藤があることが道徳的、といふことです。新字(略字)を使つて、何でも「合理的」に考へればよい、といふのは一見よいことのやうに思へますが、決してそれは道徳的によいことではないし、人間的ではありません。