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家族の経済学

はじめに

家族のエポックを時系列で並び立てると、はじめに男女の出会いがあり、求愛、結婚、生産活動の分担、出産、子育て、子供の独立、死別と続きます。

勿論、途中での離婚もありますし、上記の順序が入れ替わるケースだって、珍しくありません。

どちらにしろそれぞれの場面で、人は意思決定を迫られるわけで、このページでは、そのメカニズムを解明したいという、かなり野心的な目的を持っております。ただし、ここでいう「人」とは、全ての人の平均をとった架空の「人」です。生身の個人は、分析の対象ではありません。絵空事のような前提条件を設定できるのも、そのためです。

方法論としては、数学を用います。ただし、この学科が世間的には最も嫌悪されている学科であることも重々承知しております。したがって、多少の不正確さも覚悟の上で、できるだけ数式や、厳密な証明は避けて、正確な日本語での表現を旨といたします。それでも、私の文章力の至らなさから、補助的に初等数学程度の数式を用いる場合もあるかと思います。もし、読みにくいようでしたら、読み飛ばして頂くようお願い致します。

また、内容があまりにも大きく奥深いので、暇を見て、少しずつ作成する予定です。
気長に、見てやってください。



第一章 求愛理論

1.1 前置き

1.2 特殊なケース

1.3 一般のケース

第二章 人は何故、結婚するのか?

2.1 前置き

2.2 消費

2.3 家事生産関数

2.3.1 ゲイリー・ベッカー博士について(ちょっと道草)

2.3.2 アルフレッド・マーシャルについて(さらに道草)





第一章 求愛理論

1.1 前置き;
 まずは、「出会い」です。
聖書の中のアダムとイブのように世界の人口が2人の異性であり、しかもコミュニケーションの取れる距離にあるなら、話は簡単です。お互いが結婚しないより結婚するほうが良いと考えている場合、二人は自ずと結婚することになります。選択の余地が無いからです。

 ですが、現実の世の中は複雑で、あまりにも多くの男女がほぼ同数存在し、しかもコミュニケーションのとれる距離にあります。

 この場合、いったい誰と誰が結婚するのでしょうか。いうまでもなく数学的な組合せは天文学的な数値となります。
 実際には、各個人の価値観による選考順位によって、複数の異性を精査していると考えられます。即ち、「あの人よりこの人のほうがいい」といった具合です。

 この章では、男女の人数がそれぞれn人(n≧2)のとき、総当り戦でプロポーズを繰り返した場合、どのような結末になるかを考察しています。最後は、すばらしい結論が得られたと考えております。


1.2 特殊なケース;
n人の女性とn人の男性がいるとき、全ての同姓が単一の価値基準で結婚相手を選ぶ場合の婚姻の組合せを求めます。

前提条件として、全ての女性は単一の価値基準でn人の男性に対して選好順位を持っています。掻い摘んで言うと、いい男から悪い男まで第1位から第n位まで順位があって、女性全員にとって、その順位が同じであるということです。

全ての男性についても、n人の女性に対して同様であるとします。このとき、以下のプロセスで求愛するとします。

(1)男性各々が自分の好きな女性にプロポーズする。
(2)プロポーズされた女性各々は最善の求婚者を待たせ、他を拒否する。
(3)拒否された男性各々は、次に自分が好きな女性にプロポーズする。
(4)拒否される男性がいなくなるまで、または、拒否された全ての男性の
   リストから候補の女性がいなくなるまで(2)(3)の手続きを繰り返す。

この操作を最後まで繰り返すと、結婚相手の組合せは以下のようになります。

選好順位1位の女性と選好順位1位の男性,
選好順位2位の女性と選好順位2位の男性,
選好順位3位の女性と選好順位3位の男性,
      ・             ・
      ・             ・
      ・             ・
選好順位n位の女性と選好順位n位の男性

の組合せで“一意”に決まる。(数学的な解です。)
すなわち、男女全員が特定の異性と「運命の赤い糸」で結ばれていたことになります。

※「男性」を「女性」に代えても同じ結果になります。

もし、単一の価値基準が「資産が多いこと」の場合、結婚は経済的な不平等を強める結果となります。しかし現実の世の中では、単一の価値基準なんてありえないはずです。

次回は、現実の世の中で起こっているそれぞれ異なる複数の価値基準で結婚相手を選ぶ場合の結婚相手の組合せについて考察します。


1.3 一般のケース;
前回は、単一の価値基準で結婚相手を選ぶ場合を論じました。ですが、現実の世の中は複雑で、全ての同姓が異性に対して同一の選好順位を付けているなんてありえません。数学では、ある特殊な場合について考えた後、より一般的な場合について広げて考えることはよくあります。

 さて、今回はn人の女性とn人の男性がいるとき、それぞれ異なる複数の価値基準で結婚相手を選ぶ場合の婚姻組合せについて考えます。

 前提条件として前回とは異なり、それぞれの女性はそれぞれの価値基準でn人の男性に対して選好順位を持っています。掻い摘んで言うと、いい男から悪い男まで第1位から第n位まで順位があって、各女性にとってその順位が同じであるとは限らないということです。全ての男性についても、n人の女性に対して同様であるとします。このとき、以下のプロセスで求愛するとします。

(1)男性各々が自分の好きな女性にプロポーズする。
(2)プロポーズされた女性各々は最善の求婚者を待たせ、他を拒否する。
(3)拒否された男性各々は次に自分が好きな女性にプロポーズする。
(4)拒否される男性がいなくなるまで、または、拒否された全ての男性の
   リストから候補の女性がいなくなるまで(2)(3)の手続きを繰り返す。

今回は「男性」を「女性」に代えても同じ結果になるとは限りません。それどころか、プロポーズするタイミングを意図的にずらせば、異なる婚姻組合せをつくることができます。男性3人、女性3人として、以下の選好行列を考えます。

   f1  f2  f3
m1 (1,1) (2,1) (3,1)
m2 (3,3) (1,3) (2,2)
m3 (3,2) (2,2) (1,3)

ここで、fj (j=1,2,3)は女性、mi (i=1,2,3)は男性を表わし、セル(mi,fj)のx成分は男性miの女性fjに対する選好順位で、y成分は女性fjの男性miに対する選好順位を表します。もちろん、パラメータ i,j はnまで拡張できます。

 ご覧と通り、この選好行列では、男性m1はf1,f2,f3の選好順位を持っており、男性m2はf2,f3,f1の選好順位を持っていることが分かります。女性についても同様です。人によって好みのタイプが違うのは当然ですね。

このとき、他の異性からアプローチ(邪魔)されてもそれぞれの選好順位に変更がなければ、以下2通りの婚姻組合せのどちらかが成立します。

婚姻組合せ1 {f1とm1,f2とm2,f3とm3}
婚姻組合せ2 {f1とm1,f2とm3,f3とm2}

 すなわち、女性f1と男性m1はどのような求愛プロセスを踏もうとも、「運命の赤い糸」で結ばれていて結局は結婚することになるのですが、f2,m2,f3,m3は求愛プロセスの違いによって、結ばれる相手が事前には決定されていないことを意味しています。

 すなわち、相手の選好順位に変更がありえないとしても、好きな異性にアプローチする合理的理由があるということです。これほど強い制限(相手の選好順位に変更がありえない)の下ですら、好きな異性にアプローチする理由があるのですから、現実の世界、すなわちアプローチすることによって相手の選好順位を変更させてしまう世界では、推して知るべしです。未来は自らの手で変えられることを、この理論は証明してくれています。


第二章 人は何故、結婚するのか?

2.1 前置き;
 前回は、誰と誰が結婚するかの単純なモデルを考察しました。単純なモデルでは、全ての男女が一人でいるよりも結婚することを望んでいることを前提としています。より現実的なモデルは、以降の章「結婚市場」で再考察する予定ですが、そもそも人は何故、結婚するのでしょうか。

 「人は何故そうするのか。」の経済学者のおきまりの解答は、「それが割に合うからだ。」ですが、何故割に合うかはその問いの内容によって違います。昔からの素朴な疑問「人は何故、結婚するのか?」の解答も同じですが、その理由の一部をこの章で解明する予定です。

 この章の内容は、ミクロ経済学の精度を飛躍的に向上させた概念「家事生産関数」を中心として、一人暮しの家事と家庭外労働の配分から始まり、二人暮しの家事と家庭外労働の配分について話しを進めています。ここでも特殊から一般への数学の手法を使います。

 この章の厳密な理解には、大学課程の偏微分(複数変数の微分)までの知識を必要としますが、初等数学の数式しか使わないように心がけるつもりです。それでも、私の文章力の至らなさから、読みにくいところは出てくると思いますので、そこは読み飛ばして頂くようお願い致します。


2.2 消費;
 標準的な経済学の教科書では、経済活動を、「生産」・「分配」・「消費」と大きく3段階に分けて分類しています。中でも「消費」は経済活動の最終目的とされています。すなわち、「消費」したいという欲求があるから、「生産」も「分配」も発生するものと解釈されます。

 では、具体的に「消費」されるとは、いかなることでしょうか。
古い経済学では、貨幣(お金)と財(商品やサービス)が交換された瞬間、「消費」が発生したものと見なされました。分かりやすく言えば、お客さんがスーパーマーケットのレジを通過した瞬間、「消費」が発生したと考えられたのです。この段階で、経済活動の最終目的が達成されたというわけです。

 では、「消費」された後は、本当に何の経済活動もないのでしょうか。

 「経済活動」という言葉が、貨幣の動きを伴う経済活動(市場経済)のみに限定して使われるならば、「消費」された後の「経済活動」は、ありえないでしょう。
しかし、「経済活動」は必ずしも、貨幣の動きを伴うとは限りません。
むしろ、貨幣の動きを伴わない経済活動(非市場経済)のほうが、日常的、一般的ではないでしょうか。

 例えば、スーパーマーケットで購入された商品が食料の場合、家庭内で加工を施された(料理された)のち、家族の口に入るはずです。購入された商品が洗剤の場合、洗濯された後、衣類の汚れが落ちているはずです。

 これら、料理や洗濯は、紛れもなく非市場経済下の経済活動です。しかも「生産」、厳密には「再生産」に当たります。

 では、本当の意味での「消費」とは、何でしょうか。それは、家庭内での「経済活動」の最終工程に他なりません。
具体的には、例えば食料の場合、家族の食事が終了したとき、「消費」が完了したことになるはずです。また、その後の片付けは、別の「生産」工程となります。

 このように、あたかも一度、家庭内に「消費」されたかに見える財(商品・サービス)は、更に家庭内で「生産」「分配」「消費」がされるのです。

 古い経済学では、「消費」を市場経済の範囲でしか捉えていなかったために、家庭はあたかもブラックボックスのようなもので把握され、「消費」した後の経済活動は、無視されてしまいました。

 家庭の内部までは、経済分析の対象にできなかったのです。
しかし、ゴミは誰が出しに行くのか。料理は誰がするのか。布団の上げ下ろしは誰がするのか。誰が市場経済の中に飛び込んで、貨幣を調達するのか。誰が貯蓄額を決めるのか。・・・といった、家族内の諸々のことは、最も身近で重要な問題です。
家族のメンバー各々にとっては、日本経済の問題よりも遥かに重要なことのはずです。

 次項からは、いよいよ、家庭内部での経済分析の始まりです。
まずは、市場から購入された財が、家庭内の「生産」工程に、どのように反映されるのかを考察します。
 

2.3 家事生産関数;
 ゲイリー・ベッカー博士(1992年ノーベル賞受賞)は、家庭内の「生産」を以下のように考えました。

 市場で購入された商品は、家庭内での生産活動に再利用される。その際には、時間も同時に消費されることになると...。

すなわち、家庭内の生産活動は、市場で調達する財の価格と消費するために費やす時間をパラメータとする「関数」であると考えたのです。その関数を「家事生産関数」と呼び、以下のように表わしました。


 個人 j によって構成される家計において

  Xj = F(Hj,Ij)

  Xj : 家事生産物の集計量
  Hj : その生産活動のために用いられた j の時間
  Ij  : 市場から購入された財の集計量


 これは、画期的な関数です。何故なら、古いミクロ経済学の理論を包括しながら、家庭内の現実をより忠実に表現しているからです。

 Hj = 0 の時、
すなわち時間を無視した場合が、古いミクロ経済学の理論を表わしています。

 逆に、Xj = 0 の場合はどうでしょう。
すなわち、市場から財を購入せず、時間のみを費やしている場合です。
これは、マクロ経済学の所得−レジャーモデルを表現しています。このモデルにとると、楽しい「レジャー」は市場財のいかなる投入も必要とせず、時間だけによって家庭内で生み出されるものとしています。

 また、Xj < 0の場合はどうでしょう。
市場財の負の投入、すなわち、「産出」を導入することによって、自分自身で消費する財に加えて市場財を生産する家計にも家事生産アプローチを拡張できるのです。
ここでも、特殊から一般へ向かう数学的な手法が見うけられます。

 ベッカー博士は「家族の経済学」の創始者の一人ですが、これほどすばらしい研究であるにも関わらず、博士のノーベル賞の受賞対象に「家族の経済学」は明示的に含まれていません。

その理由は、私の推測の範囲で次章に公表致します。
 

2.3.1 ゲイリー・ベッカー博士について(ちょっと道草);
 ベッカー博士は、他の経済学者に最も影響を与えた経済学者(論文で引用された回数が最も多いという意味で)として知られています。

 経済学者としての彼の研究テーマは、「差別」「教育」「犯罪」「家族」と、社会的なものに偏っています。人間そのものを研究対象にしているといっても、過言ではありません。また、すべてがミクロ経済学の応用であり、数学を武器に全ての問題を斬っていきます。

 それが故に、他者からの誤解も多く、特に人間をあたかも損得勘定だけで動くマシンのように捉える考え方は、多くの反発を受けているようです。

 人間を冷たく捉えているように見えることが原因だと思います。

 しかし、彼の真の思いはその逆のように思えてなりません。なぜなら、彼の研究テーマは、普通なら誰もが目を伏せておきがちなものが多いからです。そこに彼の熱い思いを感じます。

 逸話によると、彼が経済学を志そうとした当時、この学問のあまりに浮世離れした有り様に幻滅し、社会学に転向しようと考えたほどだとか。結果として、自ら独自の経済学の世界を築き上げたのですが、それは、社会の日の当たらない部分にスポットライトを当て、そのメカニズムを解明するという偉業にもなったのだと思います。

 もちろん彼の学者としての精神は、物理学者と同じく「真理の探究」にあるのは、間違いありません。物理学者が「物質とエネルギーの真理の探究」とすれば、彼のそれは「社会と人間の真理の探究」だと思います。

 結果として、差別の存在、学歴格差による生涯賃金格差の存在、人は何故、罪を犯すのか、専業主婦があたかも非労働者のような扱いを受けることと言った社会問題に真正面から取り組んだことになるのですが、彼が口にしなかったことを、あえて表現すれば、


 「私は、社会的弱者の救済のために研究しているのではなく、「社会の真理の探究」そのものを目的として研究しているのです。」(私の推測です。)


となると思います。
 彼は経済学者としては、差別はいけないとも言っていませんし、罪を犯してはならないとも言っていません。ただ、する側される側双方が経済的損失を被る可能性が大きいことを数学的に証明しているにすぎません。

 つまり、倫理的なことは口にしていないのです。これは、経済学者として、理性的な態度だと思いますし、彼の学者としての姿勢は、アルフレッド・マーシャル(近代経済学の父)が言った経済学者として必要な資質「冷静な頭脳と暖かい心」そのものを体現していると思います。

 善悪の判断を一切除外した上での彼の研究は、同時に多くの識者からの反発を招いたのも事実です。「経済学帝国主義」の言葉に代表されるように、従来は経済学の分野でなかった方面にまで、数学を武器にした経済学の手法を取り入れたことに対する反発も大きいようです。

 数学の専門教育を受けていない人々が研究している分野にまで土足で踏み込んだ上に、仮説をあたかも真実であるかのごとく、呪文のような数学を振りかざして証明するのですから、不遜な態度と思われてもしかたがありません。

 特に、彼の「家族論」(1981年発表)に対しては反発が大きく、ノーベル賞選定委員会内でもこの著作については、評価が大きく二分したそうです。  

 私が思うには、本来「家族」は、個人にとって損得を抜きにした関係を永続的に維持できる唯一のグループ、社会の最小単位であることから、希少性のある聖域としての性格が大きく、そこに損得勘定を持ち込んだ彼の研究に対する反発があったのだと思います。


「家族とは、そんなものじゃない!」と、言いたいのでしょう。


 しかし、日本においては、「家庭崩壊」「幼児虐待」「ドメステック・バイオレンス」等、家族内での問題は現在、山積しています。
これらを、単に「親としての自覚の問題」や「倫理の問題」として片付けてしまって、本当に問題の本質が解明されるのでしょうか。

 私は、経済学的なメカニズムの解明こそが、これらの問題を解決する処方箋に繋がるものだと考えます。


2.3.2 アルフレッド・マーシャルについて(さらに道草);
 前項では、アルフレッド・マーシャル(1842-1924)の名を持ち出してしまいました。 多くの経済学者の中で私が最も敬愛するこの「近代経済学の父」の名を出した以上、何も語らずにはおれません。(道草の言い訳)
 歴史上の経済学者は皆、個性的で魅力を感じる存在なのですが、彼には特にそれを強く感じます。
「マーシャルのK」「マーシャリアン・クロス」など彼の名は経済学の教科書内のあちこちに登場しますが、彼の人となりは今の経済学部の学生にはあまり知られていないように思います。

 彼の経済学の定義ほど、彼の思いが強く伝わるものはありません。即ち、 


 「経済学とは人間の福祉の向上に関する学問である。」(概略)


 教会の牧師の子として生まれた彼は、兄弟も多く必ずしも裕福とは言えない家庭で育ったようです。子供のころから数学に興味を持ち、厳格な父親の目を盗んでその系統の書物を読み漁っていたとのこと。親の期待に沿った神学の勉強には身が入らなかったようです。 

 ケンブリッジ大学に進学。数学を専攻。テムズ川を横目に毎日通学したようです。そのことが、後の彼の人生を大きく変えたように思います。当時のテムズ川には、多くのボートピープル(船上生活者)がおり、彼の家以上に貧しく犯罪や売春で生計を立てていたようです。

 彼が経済学を志した動機は、このような貧しい人たちを救済したいという思いからでした。牧師の息子である彼は、知らず知らずのうちに親からの影響を受けていたように思います。

 また、興味深いのは彼の考え方です。貧困や犯罪は当の本人に問題があるのではなく、社会システムに原因があるとした所です。その後の彼の活動と照らし合わせると、この考えを前提にしているとしか思えません。経済学の研究でそのメカニズムを解明し政策さえ変更すれば、貧困を撲滅できると信じる彼の姿は、政治家さえも経済プレーヤーの単なる一員にすぎないと解釈する現代経済学から見れば無邪気さを拭いきれませんが、一筋の清らかささえ感じてしまいます。




時間がきてしまいました。この続きはまた次回。        by QPLUSPLUS