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 ◎ 歳時・点描

徳倉城主北條氏尭は、永禄年代(1558〜1569)にはすでに三島口の総支配を受け持ち、後北條家御身内衆の一人として、長久保城、泉頭城、駿河徳倉城をはじめ獅子浜城、黄瀬川及び狩野川下流の野城、見張り所の総轄であったと考えられる。

永禄十二年 (1569)六月武田信玄は一万七千の兵を率いて突如刷駿河に進入し今川領を蹂躙し、根方の興国寺城を落とし、岡の宮の光長寺を焼き、ふた手に分かれ、ひと手は沼津車返しを焼き、黄瀬川を適えて北條領に入り、清水町八幡区を焼き払い、泉頭城を落とし、三島宿をことごとく三嶋大社まで焼土と化し、韮山城に肉迫した。ひと手は黄瀬川を北上し長久保城を経て深沢城に向かった。甲斐軍団の往くところ社寺民屋の別なく、家を焼き馬を持ち出し盗み、米麦を強奪し田畑を踏み荒らし、婦女子を犯し、戦乱の渦中で庶民は苦しみ喘ぎ、残忍を極めたと云われる。

永禄十二年七月四日北條氏尭は駿河徳倉城にて「福寿」の印を使っている。(多門坊文書)

永禄十二年十一月信玄再度駿河に進攻を開始す。氏康軍大敗、東駿の諸城ことごとく落城。

永禄十二年十二月十三日今川氏眞武田信玄に駿河を遂われ掛川城に入り、家臣の朝比奈泰朝に頼るも、掛川城も徳川家康に攻められ、北條を頼り伊豆徳倉城に寄寓す。(『静岡県史料』、『静岡県人物誌』)

元亀元年 (1570)武田軍北條の守る韮山城攻撃を開始している。

 天正四年 (1576)北條氏政は三島を拠点として、長久保、泉頭、駿河戸倉、獅子浜の諸城の防備を厳にして沼津に討って出たが、武田軍は黄瀬川を守ってこれを退けた。

天正五年 (1577)津田兵部伊豆徳倉城主となる。食邑として田方郡江間郷の内を領す。

天正七年 (1579)束の間の平和がやぶれ、両軍の戦闘がはじまり、秋武田勝頼伊豆の国に向かって進発す。氏直も出馬し、初音ケ原に旗を立て対陣。勝頼が織田、徳川の連合軍に滅ぼされる天正十年 (1582) までつづく。

天正八年 (1580)二月二十五日付けで、北條家軍令が田方方面に「田方方面戦乱申分国ニ落散シ百姓更ニ他出セバ罪スベシ」と農民の逃散を防ぐ命令が出ている。(『静岡県史料』)

天正八年三月十五日北條氏政、武田勝頼の水軍が伊豆重須沖で戦う。氏政三島に出陣する。(『小田原編年録』)

天正八年八月一日北條氏政、勝頼と黄瀬川で対陣する。(『賓武談叢』)氏政、勝頼の軍と伊豆徳倉で戦う。(『安得虎子』)

天正九年十一月十日笠原正尭 (松田憲秀の二男) 武田捲頼に内応する。勝頼その状況を上杉景勝に報告する。(上杉文書)

天正九年十二月清水町戸倉城主は武田側に寝返りをうつ。北條氏尭大平新城を構えて対抗するが、武田の攻撃に大敗する。翌天正十年正月氏勝を新城に入れ、二月手城山を攻略する。まもなく勝頼敗死。二月二十一日駿河戸倉城も北條の手に陥る。

天正十一年八月十五日北條氏直と家康の女督娘の婚儀がなされる。

天正十三年三月十七日及び同十四年二月三日桑原百姓中宛に 「北條家人足催促朱印状」 が出されている。それによると、韮山城大普請のための人足催促で、一日闕如すれば五日の過料にする旨を併せて伝えている。(『静岡県史料』 森文書)

天正十四年(1586)三月九日三島にて家康と氏政、氏直父子の会見あり。十一日に沼津三枚橋城に於て、再度会談をもっている。三月十四日三島に於て、家康と民政・氏直の御村面があり、「御両家相和シテ兄弟ノ御契約アリテ帰ラセ給フ」ことになった。これより先に家康は沼津三枚橋城の防備を解除している。

天正十一年八月家康の第二女、北條氏直の室とあり、相方会見の引出物として、家康より氏政に守家刀菊一文字の太刀長刀、南蛮鉄砲、豹皮五枚、猩々緋(オランウータン)皮二枚、虎皮五枚、綯(チヂミ布地)二百段、氏直に国俊の刀吉光の脇差、北條家より家康に太刀一腰馬十疋、大鷹十二連 (羽) とあり。(『常談紀談』)

天正十四年五月二十八日桑原郷百姓中宛に、伊東山に於て平門材木を請取り、津端まで運ぶため人足一人を徴する旨の 「北條家朱印状」が出されている。

天正十四年九月十五日桑原百姓中宛に狩野山の材木を伊東まで運ぶための人足七人を徴する旨の「北條家朱印状」が出されている。

天正十五年六月三日桑原百姓中宛に、狩野山より御門材木を伊東まで運ぶための人足七人を徴する旨の「北條家朱印状」が出されている。

天正十五年九月二十日桑原百姓中宛に、伊東山の材木を津端まで運ぶための人足四人を徴する旨の「北條家朱印状」が出されている。

天正十五年十一月八日桑原百姓中宛に、山中城普請のための人足一人を徴する旨の「北條家朱印状」が出されている。

天正十六年正月十四日桑原百姓中宛に、山中城普請のための人足一人を徴する旨の「北條家人足催促朱印状」が出されている。

天正十六年四月六日桑原百姓中宛に、狩野山の材木を伊東津端まで運ぶ人足を徴する旨の「北條家朱印状」が出されている。

(以上は 『静岡県史料』森文書)

 

天正十六年正月十四日塚本百姓中宛にも山中城普請のための人足十五人を徴する旨の「北條家朱印状」が出されている。(『静岡県史料』塚本宮内文書)

天正十六年に入り氏直は社寺の鐘を徴し粘土を所在に課し、銃丸を鋳造させている。

天正十七年極月八日梅縄百姓中に対しても山中城の普請のための人足七人を徴する旨の「北條家来印状」が出されている。(『三島市誌』中巻)

天正十七年(1589)十二月九日北條家に於いては、兵賦軍制を更定し十二月晦日須藤総左衛門をして、冶工十四名以下七日の工程をもって巨銃(大砲)二十挺を鋳造させている。

天正十八年正月五日(1590)北條方管内に令し、人夫三万餘を徴し諸城を修築している。

天正十八年正月二十日一門宿将を小田原にあつめて作戦会議を行っている。