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http://aikoku.org/guest/batol_bbs-in.htmlの過去ログ集に私の文章を發見した。
「憂國掲示板」から轉載されたものである。轉載者の超特急氏に感謝する。
下から讀むやうに。

ちなみに最後の高橋氏の文章に腹を立てて私は「絶縁状」を叩きつけてゐる(この論爭も開始から終了まであつといふ間)。直後に一應よりを戻すのだが……。
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野嵜健秀さんへの答え(2)
投稿日 12月4日(金)15時00分 投稿者 高橋博彦

 >天皇の問題を道徳的に取扱はねばならないといふのは、天皇を非人間的に取扱ふことは出来
 >ないからです。単に天皇は神であるといふことは残酷である、と申し上げるのです。

 そこなんですよ。私が強く申し上げたいことは。あなたは私に、日本は既に西欧文化の洗礼を
浴びているのだから、天皇という宗教(道徳或いは文化として捉えてもいいが)を西欧的な一神
教的概念で説明してほしいという要望をしました。天皇を唯一神として捉えることは、日本人に
取っては最高度に不適当なことだと私は言ってあるつもりです。日本は不思議な国です。

 西洋対東洋が、一神教対多神教の国という捉え方は出来るかもしれないが、西欧対日本が、単
純に唯一神対多神教的アニミズムとして言い切れないことは明らかです。それは天照大神を源流
とする皇統の御存在と伊勢神宮の存在です。ここに日本の独自性があり、ここに日本の神秘があ
ります。日本人は天皇という御存在に対して、人間として立派な方だからお言葉に従う、人間と
して問題があられる方だから従わないということであれば、天皇を完璧に人間として同列に置い
ています。問題の深刻さはここにありますが、先に私が言ったように、二千数百年日本人は皇統
を継続させてきているのです。その中で日本人が己を失うほど天皇のお言葉によって危機を感じ
てきたのかと言うと全くあり得ないことでした。

 あなたは完全な自己矛盾を起こしていますよ、野嵜さん。私は皇統の系譜はおろそかに見ては
いけない、そこには人智では及ばない神性があることは疑う余地がなく、その部分を無視しては
いけないと言っただけです。しかしあなたは、天皇の神性をどうしても西欧的な対立概念、すな
わちカントやデカルトのような非東洋的な明確性によって定義づけろと私に要求している訳です。
ユークリッド幾何学的な自明性を持って天皇が唯一神であると位置づけた場合、天皇ご自身の人
間的な側面については国民がどうあらねばならないか、あるいは天皇ご自身のお心の問題はどう
なるのか、と私に問いかけた訳です。私はその問題は、あくまでも日本の外から眺めた場合に起
こり得ることであり、日本の内側からは起こり得ないことだと申し上げています。天皇を信仰と
して捉えることは純粋に民族的な問題であり、そこに欧米の唯一神概念を導入する必要は全くな
いし、考える必要もないことです。信仰の問題は比較宗教学ではありません。日本人が天皇をど
う仰いでいるかということに尽きます。先祖達は天皇をあくまでも日本的に仰いできました。そ
れで良いと思います。あなたも私も内側の人間なのですから。内側の人間が内側の信仰を持ち出
すときにどうして外側の宗教的由来を持ち出さなければならないのか、ということです。最後に、

 >天皇の名のもとに個人に死を命ずる権利がはたして(例へば)高橋さんにあるのか、あるいは
 >天皇ご自身にさへ個人に死を命ずる権利はあるのか。無謬性の問題うんぬんよりも大事な問
 >題です。

 このご質問には、正直「アカ」が入っていますよ。大変失礼だが私はあなたが天皇をどのよう
に見ておられるのかを上の質問によって見切ってしまいました。アカを裏付ける最大の特徴は、
思想や質問の根底に「生命尊重至上主義」が見受けられることです。天皇も私も他人に死を強制
することはできない。しかし、私が自発的に天皇のために死を選択することは誰にも左右される
ことではないのだ。これが信仰ですよ、野嵜健秀さん。

 死の命令に従うのではなく、天皇がお持ちになっている神性が私の命など比較ならない尊さを
有していることが大事。そこには自発的に命を散華した英霊たちの価値観、信仰があるんですよ。

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野嵜健秀さんへの答え(1)
投稿日 12月4日(金)14時59分 投稿者 高橋博彦


野嵜健秀さんのご質問は、本当にごもっともで考えなければならない本質的な事柄が多々あります。

  >日本の文化は一度西欧文化の洗礼を受けねばならないのです。西欧的な日本文化批判は
  >現実問題なのです。その上で日本文化に回帰することは可能です。日本文化はそれほど
  >弱くはありません。

 再度のご質問の趣旨を、日本の天皇を考える場合、西欧的な概念で理解できるように説明を求める
という風に理解してもいいのでしょうか。日本は明治維新以来、積極的に西欧文化を摂取しました。
その中でも、ペリーの黒船に最大の驚異と立ち後れを感じ、産業革命以来の科学技術を最優先に取り
入れてきたわけです。私は1980年にサウジアラビアで働いていました。ご存じのようにサウジは
最もイスラム戒律の厳しい国でして、アメリカの技術は積極的に導入していましたが、英米文化いわ
ゆる西側の風俗文化に対しては、異常と思える過敏さをもって排撃していました。コーランに則って
いない事柄はすべて悪魔の思想なのです。日本はそれよりも百年も前に既に似たような経験を踏んで
いるわけです。それは当然のごとく「和魂洋才」を基本としました。しかし中には西欧文化には、人
文科学的なパラダイム全てが日本のそれを凌駕していると考えた為政者達がいたことは確かです。
 そこで象徴的には、熊本敬神党の純粋な尊皇運動に見られるような日本人の意識が強くありました。
しかし明治大帝が賜れた教育勅語にも見られるように、当時の日本人は真の意味で開国を志向してい
ました。西欧をどの範囲まで取り入れるのかについては、喧喧諤々の齟齬が生じたことでしょう。

 結果的には明治以降の近代日本は西欧文化を受け入れてきました。その姿は単純に見れば、西欧キ
リスト教文明と、悠久の皇統を戴く豊葦原瑞穂國文化との摩擦の連続でした。その摩擦の最たるもの
がこの間の大東亜戦争の結末なのです。日本が本源的に持つ国の懐の深さは、全ての外来の思想哲学、
宗教を受け入れ、日本的な形に変容させることによって新たに日本独自の文化として取り入れて行く
ことにあります。たとえば仏教、道教、儒学、朱子学、陽明学、その他です。これは視点を変えれば、
多神教的な節操のなさと映らないことはないが、真実は日本古来の本質である神道文化の持つ最大の
特徴なのです。

 このあらゆるものを受け入れる底なしの器である神道が決して受け入れなかったものがあります。
それがユダヤ教から発展して世界宗教となったキリスト教であります。ご存じのようにキリシタンは
バテレンと呼ばれ、徹底的に排撃されました。基本的には日本人が「西欧経由のキリスト教」をいま
だに受け入れていないことは、現今の極少日本クリスチャン人口の横這い状態を見ても明らかなこと
です。ここに我が国の天皇と神道文化の巨大な秘密が存在するんですよ。あなたもキリスト教の派生
には詳しい方のように見えるから言いますが、欧米キリスト教徒が実践してきたことは、徹底した有
色人種差別と搾取です。それはいまだに継続中です。選民イスラエルの固有の宗教体系が旧約聖書体
系であるユダヤ教です。その中に明らかに預言されていた救世主が二千年前のパレスチナに登場し、
パウロがそれを異邦人のために、世界のあらゆる人種に普遍的に拡張しました。それが新約聖書体系、
すなわちキリスト教です。しかし日本人が強いて意識しなければならないのは、白人系クリスチャン
が決してキリストの教えを踏襲しなかったということです。アジアを浸食し、黒人を奴隷にしてきた
感覚は、新約聖書体系をどのように自由に解釈しても決して出てこない宗教感覚なのです。従って我
々が知りうるキリスト教というのは、巨大な異端宗教であるということです。彼らは至高の愛「アガ
ペー」とか冒しがたい「聖霊様」とか言うが、そう言いながらやっていることは人種差別と殺人でし
た。これから私が言うことはあなたは聞いたことがないことだと思います。

 人類史が始まって以来この地球上に、民族として初めて真のキリスト教を実践するのは、日本民族
なのです。そのために神は極東の島国に、西欧脚色された似非キリスト教を決して受け付けない国家
を神武時代に築いたんです。それが神州「日本」なのですよ。そのために神は時代に影響を受けない
神の大祭司として天皇家を日本民族に立たせました。神が決めたことですからこれは不動の形なので
す。恣意的に天皇を別の血筋から立てることは出来ないのです。道鏡や足利義満のような大それた野
望は全てうち砕かれています。元寇も日本が決して冒されない神国であることの証左なんですよ。


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高橋博彦様、ありがたうございます(天皇の問題について・その2)
投稿日 12月4日(金)00時42分 投稿者 野嵜健秀


さて、クリスト教の神は誤ることのない神であり、ゆゑにクリスチャンは絶対に誤ることのないしっかりとした道徳的支柱を持ちます。天皇は人間であって時に誤ることがある――かう言ふのが不適切ならば、天皇もまた人間と同じやうに誤ることのある日本的な神です。かかることから高橋さんは、「天皇を道徳として認識した場合、それは信仰としての絶対的権威を持ち得ない」と書かれました。しかし、日本人は立派な人に肖らなければ立派になれません。さうした文化が――時に誤ることのある天皇陛下を道徳的儀表として戴いていかねばならない文化が日本の文化であります。だから、天皇は人間的なところを見せないやうにしなければなりません。(実にその点、昭和天皇は細心の注意を払ひ、すべてのお言葉を公明正大であるやう努力なさいました。贔屓の力士についてさへも沈黙を守った――誰でも公言したくなるやうなことを口に出すことが出来ない、お辛かったに違ひありません。それを耐へ忍ばれたから昭和天皇は立派なのです)
天皇は国民の道徳的儀表であるべきだ、そして「開かれた皇室」に私は反対だと申しました。これは結局、天皇が人間的な苦しみを持つからなのです。クリスチャンの神は人間的な苦しみをもたないが、天皇はさうではない、にも関らず天皇は国民の理想であらねばならぬ……。現憲法で天皇は「象徴」なるものになってゐますが、そんな訳のわからないものである天皇に同情する声が「左翼」にすらあります。ならば「右翼」が精神的支柱であり道徳的儀表である天皇に同情しない理由はない。いや、天皇陛下は神だからお疲れにはならないのだ、とおっしゃるのでしたら申し上げることはないのですが、天皇のご心労を想像できないのもまた日本人ではありません。
「開かれた皇室」になっても皇族の方々がやはり立派であらうとなさるのならば、それは尊敬すべきことですが、一面それは実に残酷なことではないか。いつもは皇居の奧に静かになさってをり、お正月など僅かな機会にのみ国民の前に顔を出すだけならば、その時だけの苦労ですむのに。衆人環視の中、四六時中完全な人間を演ずる――これほど非人間的なことはありません。
天皇の問題を道徳的に取扱はねばならないといふのは、天皇を非人間的に取扱ふことは出来ないからです。単に天皇は神であるといふことは残酷である、と申し上げるのです。

ですから最後に、高橋さんにまたもやご回答を強ひねばなりません。
> はじめにお言葉がある。その向かうべき行き先が、「個の死」、「民族の死」に見えたとしても従うべきです。
天皇の名のもとに個人に死を命ずる権利がはたして(例へば)高橋さんにあるのか、あるいは天皇ご自身にさへ個人に死を命ずる権利はあるのか。無謬性の問題うんぬんよりも大事な問題です。
私は、そのやうな権利はないと考へます。(実際に昭和天皇は、国民に死ねとはおっしゃらなかった)

この問題はとことん考へてみるべきだと存じます。「反論」をお願ひします。(高橋さん以外の方のご意見もよければ聞きたいです)
http://www.d1.dion.ne.jp/~tnozaki

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高橋博彦様、ありがたうございます(天皇の問題について・その1)
投稿日 12月4日(金)00時39分 投稿者 野嵜健秀


私の質問にご回答くださいまして、誠にありがたうございます。ご多忙のことと想像するのですが、そのやうな中で長文のご回答をいただくとは、恐縮です。私もよく考へて見て、さらに文章を書いて見ました。長くなりましたがお読みいただければ幸ひです。

高橋さんはこのやうにおっしゃいました(私は高橋さんの考へ方をかう理解しました)――日本人は長い歴史の間、天皇を人間的な神であると考へつつ、自然に天皇に従ってきた。だから今の日本人も先祖と同じやうに天皇に従ふべきである。
私の申したいのも高橋さんと同じことなので、この点異存はございません。
> 第一に、天皇を唯一神と認識した場合、無謬性の問題が生じる。第二に、天皇を道徳として認識した場合、それは信仰としての絶対的権威を持ち得ない。第三に、天皇を政治的な「王」として認識した場合、時代の変遷によって誰でもなり得る可能性を持ち、それは万世一系の皇統の御血筋でなくてもいいわけである。
高橋さんご自身はこれらのことはどうでもよいとお考へのやうです。「問題の解答の根」は「皇統が経過存続した時間の長さを意識することです。」と述べられてゐるからです。だが、そこを私は問題としたい。厳密には第一、第二の点です。第三の点は道徳の問題としては論外なので省略します)

さて、まづ申し上げておきたいのは――高橋さんにお詫びしたいのですが、私の質問のしかたが日本人としては不躾な質問であった点です。ただ私は大学で英文学を学んだのですが、イギリスでは相手と議論する時まづ相手の論理を否定するときいたのでそのやり方を実践したのです。もちろん私は単なるディベートとしてではなく本気で論争をしようと思ってゐました。(だからさきの投稿で述べたことは私の信念です)このイギリス式の論法といふやつ――これは西欧の文化が特徴的に持つ思考法に基づいてゐます。西欧の文化――それはクリスト教に基づく、截然と物事を分かつ文化です。単に分析的といふのではなく、正邪善悪を、クリスト教を信じる国の国民は截然と分かちます。
一方日本人は何事も分かつことをしない民族です。政祭一致であり「わたくし」といふ言葉の語源が「我尽くし」であるやうに相手と自分の間に区別をたてません。
しかし近代以降「何事も分かつ」文化である西欧の文化が流入してゐる。いまさら鎖国はできません。どうせ我々日本人は、一度西欧文化を体験してしまったのです。認めないといってもしかたがない、少なくとも明治維新の時に日本は西欧の科学文明に太刀打ちできませんでした。だからといって西欧文化に日本の文化が劣る訳ではないのですが、和魂洋才とはいかない――洋才は洋魂(クリスト教)から生まれたからです。日本が西欧とつきあっていかねばならないならば、西欧文化を「上滑り」であっても理解しなければならないと夏目漱石は言ひました。
日本の文化は一度西欧文化の洗礼を受けねばならないのです。西欧的な日本文化批判は現実問題なのです。その上で日本文化に回帰することは可能です。日本文化はそれほど弱くはありません。
(続く)


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野嵜健秀様にお答えする(4)
投稿日 12月2日(水)16時43分 投稿者 高橋博彦


>天皇陛下が中国に謝罪なさつたが、あなたも中国に謝罪なさるのか。
ぜひお答へください。

 もちろん迷うことなくそうします。天皇陛下の国民への御希求がそうで
あるとすれば従います。当然であります。しかし、中国でのことで、天皇陛下
のお言葉がそこまではまだ国民に向かって届いておりません。そのご意志はな
かったものと理解しています。お言葉が正しいか正しくないかなのではなく
従わなければなりません。


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野嵜健秀様にお答えする(3)
投稿日 12月2日(水)16時04分 投稿者 高橋博彦

あなたが私に提示した問題は、旧約聖書の中の有名な審理問答になっている
、アブラハムが、実の息子であるイサクを生け贄として捧よ、という神の命令
に苦悩したアブラハムの故事と同質的な問題がある。私の答えは拙劣だ。

 しかし私は基本的には答えたと思っている。皇室を開かれた存在にするなんて
もってのほかだ、と言う意味もよく分かる。しかしこのことはあなたや私のみな
らず日本人全員がこれから問いかけ続けていかなければならないことだと思います。

 最初に明確な答えが出ていることではないのですから。

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野嵜健秀様にお答えする(2)
投稿日 12月2日(水)15時46分 投稿者 高橋博彦


皇統が継続してきた過去の長い時間を考えると、まず天皇という御存在は、政治的な
事象をはるかに越えた次元にあるということがお分かりでしょう。では、天皇はユダ
ヤ教キリスト教的な一神教の神なのか、という考えに直ぐに移行しますが、ちょっと
待っていただきたい、と私は言うわけです。

 『天皇は神なのか? 或いは人間なのか?』

 という問いかけそのものが、非日本的な認識であります。もう少し言えばこの問い
かけは戦後認識の中の最たるものでしょう。我々の先祖は、様々な時代を天皇家とと
もに存在してきたことは紛れもない事実であります。その歩みの中で、上のような
「二者択一」の選択を迫られてきたとお考えでしょうか。

 或いは中にはそう考えた先祖も何人かはいたでしょう。しかし断言しますがほとんど
誰もが、天皇は天照大神に源流を持つ天遜族の末裔であることを疑っていなかったので
す。従って歴史において、先祖達は天皇を「天子様」と言って人間だとは思っていなか
ったことは明らかです。しかし血肉を持ったお体は我々と同様に人間としての寿命をお
持ちになり、ご病気もなされ、喜怒哀楽を持っています。

 イエスキリストは、旧約聖書に預言されていたお方で、その出現は預言通りに行われま
した。そしてユダヤ教として知られる旧約聖書体系が拡張され、新たに新約聖書体系が出
来上がりました。これがキリスト教です。

 我が国の天皇には「聖書体系」が存在しません。その意味でイエスキリストの神性を証
す教義体系に比肩し得る教義体系は存在しません。唯一テキストとして記紀神話がありま
すが、ご存じのようにそれは、天武天皇がお命じになって稗田阿礼に暗唱させ、太安麻呂
によって編纂されたものです。神話としての重要性は大きいのですが、天皇を教義体系と
して組み込んでいる教典ではありません。

 日本の天皇にあるのは、巨大なる無窮の時間なのです。世界に対しても日本に対しても
日本の天皇の本質は、西欧に勃興した今までの神概念とは違っていて潜在的に封じられて
いると私は考えています。それは民族全体がある覚醒をしたとき、全き理解が行われると
私は確信しています。日本人は天皇の人間的な誤謬をたとえ認めたとしても、この御血筋
には従わなければなりません。それは民族の定めなのですから。そのお言葉によって民族
が消滅したとしてもそれは定めなのであります。従容として受ける以外にないのです。私
の腹はそうですよ。天皇と臣民の臍帯とはそういうことです。ここに信仰があるんですよ。
昭和天皇がマッカーサーにお会いになられたときのお心を私はひたすら信じるだけです。
元寇以来の日本の姿を振り返って見てください。この日本を滅びに導く原因になるお言葉
を天皇が言揚げするわけがありません。それは今上天皇においてもなんら変わるものでは
ありません。ぎりぎりの選択を迫られたとき国民は疑わず天皇のお言葉に従うべきです。
日本人は天皇のお言葉に従うこと以外にはその民族的自己同一性を持ち得ない民族であり
ます。

 はじめにお言葉がある。その向かうべき行き先が、「個の死」、「民族の死」に見えた
としても従うべきです。

 最後に神社の奥にある神殿には、祭神が存在せずに聖なる「空」になっています。この
「空」に祭神が宿るとき、真に民族が目覚め、天皇の本質を理解できると私は考えていま
す。それが日本人のお守りである「蘇民将来」の本当の意味です。

 日本は深い。あなたや私が考えているよりもはるかに。

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野嵜健秀様にお答えする(1)
投稿日 12月2日(水)15時45分 投稿者 高橋博彦


<< 問題は、天皇はクリスト教の神ではない――生身の人間である、といふこ
 となのです。
「……天皇も人間であるからには時に過ちを犯すのであり、そこに天皇を「倫
  理の儀表」として崇拝することの難しさが存する。」(『天皇を戴く商人国家』
  松原正著・地球社発行・143ページ)私は「開かれた皇室」になつて英国王室の
  やうに天皇が権威を失ふことをおそれる。さやうなことになつて、国民が天皇
  をばかにするやうになつたとする――さうしたら国民は精神的支柱としていつ
  たい何を頼ればよいのだらうか。日本国民はクリスト教の神を信じない、しか
  し立派な人であるはずの天皇ならば信じる。日本人の道徳の問題なのです。>>



 野嵜健秀様、ご意見寄せていただきましてありがとうございました。実はあなたが
寄稿された問題提起は充分に予想できておりました。できれば回答を回避したいとい
うのが私の偽らざる心境です。言うまでもなくこの問題は「国想い」の本質をついて
いることなのです。私は右翼ではありませんが、「日本人は天皇に戻れ」という姿勢
を第一義にすることを単純に右翼として規定するなら間違いなく私は右翼です。

 こういうことでしょう。日本の皇統は世界に比類のない深さと冒しがたい神性を有し、
万世一系の天皇は、人間の形をとられた現人神である。従ってそのお言葉は全き無謬性
を持つ。臣民が無謬の天皇に従うことを最高の是としたならば、人間として、まさに
人間であるが故に出された天皇の「お言葉」が、皇国の臣民として従い難いものである
場合、国としてその秩序は保てない。まさにあなたのおっしゃる通りです。私の知る限
り誰もこのことに言及しません。これは日本人として、或いは表現者として命がかかっ
ている事柄だからです。しかし、誰かが真正面から言わなければならないことです。

 あなたが提起された内容、実はここに日本人が必然的に超克しなければならない問題
の真の核があるのです。それは私自身の最大の課題でもあります。従ってこれからまだ
まだ充分に問いかけて行かなければならないことですが、現段階の私の存念を申し上げ
ましょう。

 第一に、天皇を唯一神と認識した場合、無謬性の問題が生じる。第二に、天皇を道徳
として認識した場合、それは信仰としての絶対的権威を持ち得ない。第三に、天皇を政
治的な「王」として認識した場合、時代の変遷によって誰でもなり得る可能性を持ち、
それは万世一系の皇統の御血筋でなくてもいいわけである。

 日本人は、過去の歴史に於いて、否応なく上の三つの中から常に選択を行ってきたよ
うに思えます。どれをはっきりと選択してきたのかをはっきりと言えなくても、ここに
問題の解答の根があると私は思っています。皇統が経過存続した時間の長さを意識する
ことです。

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http://aikoku.org/guest/batol_bbs-in.htmlの過去ログ集より。↑

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↓これは私が保存してゐた下書きから。↓
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こんばんは。野嵜と申します。さて、
 >昭和天皇は立派な方でしたが、今上天皇はさうではありません。
といふ私の記事について、高橋博彦様から疑問が発せられましたのでお答へしたいと存じます。

今上天皇のお言葉の件ですが、高橋さんはかう述べられました。
>もしですよ、あなたが「お言葉」があつた、なかつたということで昭和天皇様と今上天皇様を比較された上でのご判断だとしたら、天皇陛下の御存在を政治的にしか理解しておられないことを自ら明言されたことになります。
おつしやる通り、私は「今上天皇はしばしば政治的な言葉を発せられる」と思つてをります――それが問題なのです。まさに天皇陛下がご自分を「政治的」存在になさらうしてゐる、それはよくないことだ、と思ふのです。
日本国民は常に、天皇がゐらつしやると考へることで道徳的にふるまふことができました。この間の戦争ばかりではない、これまでの歴史を通じていへることです。(説明するまでもないでせう)
# 問題は、天皇はクリスト教の神ではない――生身の人間である、といふことなのです。
「……天皇も人間であるからには時に過ちを犯すのであり、そこに天皇を「倫理の儀表」として崇拝することの難しさが存する。」(『天皇を戴く商人国家』松原正著・地球社・143ページ)
私としては「開かれた皇室」になつて英国王室のやうに天皇が権威を失ふことをおそれる。さやうなことになつて、国民が天皇陛下をばかにするやうになつたとする――さうしたら国民は精神的支柱としていつたい何を頼ればよいのだらうか。日本国民はクリスト教の神を信じない、しかし立派な人であるはずの天皇陛下ならば信じる。日本人の道徳の問題なのです。

最後に高橋さんに問ひます。高橋さんはかうおつしやつてをりました。
>霊玄きわまりない皇統に対して一国民が今上天皇様の御資質を大上段に評価すること自体考えられないことです
すると高橋さんは、天皇陛下のことはゆめゆめ疑つてはならぬ、そのお言葉はいかなるものであれ絶対に正しいとお信じなのですか。ならば、天皇陛下が中国に謝罪なさつたが、あなたも中国に謝罪なさるのか。
ぜひお答へください。