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ドクター・キリコ事件に関して

 僕がパソコン通信を始めた当時、もう何年も前になるのだが、周りにパソコン通信をやっている人はほとんどいなかったような気がする。始めたきっかけはと言うと、なんてことはない家にパソコンとモデムがあったからである。いざ始めてみるとこれがなかなか面白かった。電子メールは便利だし、ライブラリには便利なフリーウェアやシェアウェアがたくさんあった。パソコンを使う上での幅が広がった気がした。

 現在インターネットの普及により、さまざまなマルチメディアデータがやりとりされるようになったが、当時のパソコン通信においては文字のみがインターフェースであった。そのためなのか分からないが、その中で交わされる「会話」は感情的になりやすいような気がしていた。これについては最近問題視されている、ネットワークの匿名性もまたおおいに手助けしている。会ったこともないし、顔も知らない相手だからこそ何でも「話せる」し、また誤解も生じる。

 1998年年末、あるインターネットがらみの事件が起きた。ネット上で「草壁竜次」または「ドクター・キリコ」と名乗る男が、注文のあった6人の男女に青酸カリを送ったというものである。そのうちの一人である24歳の女性がそれを飲み、60時間後に亡くなった。女性が亡くなったのとだいたい同じころに草壁も自殺したというものである。
 この事件においてもっとも注目された点は、草壁と6人の男女を結びつけたのが「ドクター・キリコの診察室」といういわゆる「自殺系ホームページ」であったということである。そのため安易にインターネットの匿名性に対して、問題を提起したりする人がいる。確かにネット社会の匿名性などにも問題点はある。匿名性は必ず無責任な誹謗・中傷を生む。また、タブーなどに対して歯止めとなるものがない。しかし今回の事件において、このことばかりにとらわれているような気がする。

 草壁と共に自殺系ネットを主催し、自らも青酸カリカプセルを所有している女性の言葉に興味深いものがある。「草壁さんは、自分にとって青酸カリは『お守り』だと云っていました。鬱病で、死にたくてたまらなくなる私にとっても青酸カリはお守りになった。草壁さんは、こうした自殺願望のある人を放っておけなかったのだと思います。」 草壁は、いざとなったら青酸カリを飲んで死ぬことができるという思いがむしろ安心感になり、その安心感に寄りかかって生きていこうという哲学を持っていたように感じられる。草壁はほかにも「医者やカウンセラーには我々の辛さは分からないと、精神医療への失望もよく話していた」という。

 このような草壁の言葉について考えていて、前にも似たようなことがあったような気がした。最近は前ほど言われなくなってきたが、一時期かなり問題になった「いじめ」の問題である。学生時代にいじめられていたという人たちに話を聞いたときである。「制服の内ポケットにナイフを入れて登校した。耐えられなくなったら誰か刺してやろうと思っていた。でも結局卒業まで耐え続けた。」「自殺はそれこそ毎日考えていた。」といったようなことを何回か聞いたことがある。これはまさに切り札を持つことによって、安心感を得ていたのであろう。もちろん彼らは自殺などしなかったし、いじめる側の人を殺したという人はいなかった。(しかし殺してはいないが、仕返しをした人がいた。)
 中学生に対するアンケートなどの結果を見ると、「いじめはなくならない」「大人は何にも分かっていない」などの意見が多いことが分かる。また「先生に言ったが解決されなかった」も多い。これらの意見は、草壁の精神医療に対する失望に近いものがある。つまり、救いは無いのだと。

 草壁と死ぬ直近まで行き来があった一人が振り返った。「今回のことで、あいつのことは何も知らなかったんだなあと、今さらながら感じた。(中略) こっちの知らないところで、インターネットのつきあいの方が深くなっていったのかもしれない。」
 僕は近年わりと「すみわけ」「ギャップ」などという言葉を口にしてきた。一言で言うと、価値観の多様化といったところか。ネット社会のつながりは場所を選ばない。物理的な距離なんか関係ない。多様化した価値観の中でインターネットが、同じ価値観をもつ人たちを結びつけた。そんなことを考え、またいじめにあっていた人たちの話を聞いていた時の感情を思い出すと、「ドクター・キリコ」を即座に否定できないような気がした。

草壁竜治および関係者の発言は、雑誌から引用しました。