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第1章 序論

 

1-1 はじめに

 

 生命にとって水は絶対不可欠な要素である。他の惑星や衛星において生命の存在を確認するための必要条件は、水の存在であると言っても過言ではないであろう。かつての四大文明は大河のほとりに生まれた。生活用水としての水、農業をはじめとする産業用水としての水は、人間の生活の基盤である。多数の人間が社会を形成し安定した生活を営むためには、大河のほとりに文明を築くのが当然である。

 マニラ首都圏(Metropolitan Manila,以下メトロマニラ)もそのようにして生まれたのであろう。パッシグ川(Pasig River)はフィリピンのメトロマニラの中心部を流れる川である。メトロマニラは都市化に伴い、1950年代以降急激に人口増加をみせている。対する廃棄物や廃水の処理システムがこのような変化に追いつかず、パッシグ川の水質の悪化は著しい。現在の先進国もかつて似たような状況を経験している。イギリスのテムズ川やフランスのセーヌ川の水質も、社会が急速に発展した時期に著しく悪化した1)

 現在の先進国は、下水処理場やゴミ処理施設といった近代的インフラを整備することによって、このような問題を解決してきた。しかし近代的インフラを整備するためには多額の費用がかかる。実際、現在の先進国が近代的インフラを整備したのは、経済発展に成功した後であった。経済が発展し社会の基盤整備がある程度整うと、人々の関心は生活の質に向かう。そのような状況になってはじめて、環境保全のための投資に対する社会的コンセンサスができあがる。

 フィリピンは東アジアの最貧国の一つとして遅々として経済発展がみられない。図1-1-1は日本のGDPの経年変化である。●印は東南アジアの発展途上国のGDPを示したものである。この図よりフィリピンが1950年代前半の日本と似たような経済状況にあることが分かる。仮にフィリピンが日本と同じような経済発展をしたとしても、追いつくのには40年以上かかる。しかも現在のような社会状況では、フィリピンのような後発の発展途上国がかつての日本のような経済発展を達成するのは困難であると考えられる。このような状況を考慮するとフィリピンにおいて、現在の先進国が行っているような近代的インフラ整備を行うことは難しい2)

 フィリピンに限らず、他の発展途上国においても同じような状況が見受けられる。首都圏や大都市には、農村から就労機会を求めてたくさんの人が押し寄せてくる。しかし彼らには十分な就労機会が与えられることはなく、結果的にたくさんの失業者が生まれる。彼らの排出する汚水やゴミによって、都市の中心を流れる河川は著しく汚染され、町中にはゴミが溢れている。また、想定されていた以上の人口密集による水不足も起きている。一方都市部にたくさんの人が移住してしまった後の農村地帯では、肥料の入手が十分にできないため、農耕地の栄養分が不足するなどの問題を抱えている。

 このように発展途上国では資源配分のバランスが崩れている。このような悪循環を断ち切り、バランスのとれた社会の中で人々が暮らしていくためには、消費型社会から循環型社会への転換が求められるのではないか。大量生産、大量消費、そして大量廃棄という社会システムに変わる新しい社会システムを構築し、均衡ある発展が望まれている。

 そのような視点から、本研究ではメトロマニラの水環境改善施策について考査した。まずメトロマニラの河川・水路の現状を、社会的状況を踏まえながら把握した。その結果、メトロマニラの水環境汚染が広域且つ慢性的であること、それは社会構造上の問題に起因していることがわかった。それにもとづき、実現可能な水環境改善施策について検討するとともに、水質汚濁の状況と社会的背景を現地で観測・調査した。その結果から、水路沿いで発生する屎尿と生ゴミを以下の方法により近代的水処理施設なしで処理することが考えられた。@バイオトイレを用い屎尿・生ゴミをオンサイトで堆肥化する。A水路網を活用して堆肥を収集運搬する。B堆肥を郊外で製品化し最終的には農地で使用する。続いて、この処理方法による水質改善効果を見積もり、その他の期待できる効果などを検討した。

 

 

1-2 メトロマニラ概要

 

 マニラはフィリピンの首都で、この首都圏をMetropolitan of ManilaもしくはNCR(National Capital Region)と呼んでいる。そしてこのNCRは10市7町で構成されており(図1-2-1)、その中にさらにCity of Manilaがある。本論文では、以降、断りのない限り、Metropolitan of ManilaおよびNCRをメトロマニラ、City of Manilaをマニラ市と呼ぶことにする。

 フィリピンには、国家を形成する以前から、バランガイ(”小舟”の意味)と呼ばれる地域コミュニティーが存在しており、現在もバランガイは最小の行政単位として存在している。フィリピンの行政区分は細かい方からバランガイ(Barangay)、ゾーン(ZONE)、ディストリクト(District)、市(City)および町(マニシパリティ,Municipality)、州(Region)となる。ただし、フィリピンではこうした行政区分が度々変更されたりして混乱しているため、役人でも正確に把握していない場合が多い。

 マニラという名前はマイ・ニラ(葦の茂る地)を語源としている3)ことからも、マニラ市の中心を流れるパッシグ川によって運搬された砂・小石・泥などが堆積して生じた沖積平野に築かれた都市であることが分かる。メトロマニラの気候は熱帯モンスーン型気候である。年間を通じて暖かく、月別平均気温は摂氏25度から30度の間である4)。5月から10月は南西方向のモンスーンが発達するため降雨の非常に多い雨季になる。逆に北東モンスーンの卓越する11月から翌年の4月にかけて乾季となる。また、6月から11月にかけて多くの台風が通過するため、大量の雨と強風をもたらす5)

 メトロマニラは総面積636km2、人口945万人の過密都市で6)、その人口密度は14,865人/km2と、東京都区部に相当する人口密度と規模である。しかし、東京に比べて内部でも人口分布の偏りは大きく、人口の集中しているマニラ市においてその人口密度は43,211人/km2にも達する。人口増加の主な原因である農村地域からの人口流入は、マニラ市についてはほぼ収まったものの、マラボン、ナヴォタスなどのマニラ市近郊を中心にまだ続いている。流入した人々のうち、多くの貧しい人々は、水路沿いなどの土地を不法占拠してスラムを形成し、不法居住者(squatter, informal settler)と呼ばれる(図1-2-2)。中でも、マニラ市内トンド地区のスラムはアジア最大のスラムとも言われている7)。メトロマニラでは、人口のおよそ30〜40%がこの不法居住者であると言われており、政府は彼らの移住計画を進めているが、今のところ効果は上がっていない。

 最後に、本研究は人々の生活と関わる部分も含めた総合的な検討を行う関係上、フィリピン人の国民性と社会的背景についても簡単に述べておく。

 まず、国民性については、南国に共通の明るくフランクな印象を受ける。「パキキサマ」と呼ばれる相互扶助の精神が浸透しており、筆者らの調査にも非常に協力的であった。また、コンパドラスゴ(Compadrazgo)と呼ばれる儀礼親族制度のような相互扶助が、システムとしても存在し機能している8)

 また、一般に彼らは非常にきれい好きである。真っ白なシャツを好み、貧しくても水浴びはほとんど毎日欠かさない。このようにきれい好きな彼らは、屎尿に対する抵抗感が極めて強いと言われている。そのため、屎尿や生ゴミを再利用するようなシステムを導入するためには、実際に清潔であるだけでなく、”清潔な感じがする”ことも重要と考えられる。

 次に、社会的背景についてふれておく。フィリピンは対外従属の典型例であると言われ、国家としての自立には遠い状態とされている9)。この従属性ゆえに、国際協力がその場限りで終わってしまう原因といわれることもある。この従属性の原因としては、歴史的な側面を考えると、統一国家が形成される以前にスペインの支配下に入り、続いてアメリカ、日本、と長い間、被支配国であったことを指摘することができる。また特に、フィリピン独立(1946年)を援助したアメリカへの従属構造が、今でも強く残っていると言われている。


1-3 メトロマニラの水環境の現状

 

 メトロマニラには多数の水路が存在する。かつてはこうした水路を用いた水運も盛んで、”水と調和した街”であったことが予想される。しかし、近年のメトロマニラは都市部の膨張と過密化により、水環境の悪化は著しい。

 以下、メトロマニラの水環境の現状について簡単に述べておく。

 

1-3-1 パッシグ川および水路の状況

 

 メトロマニラの中心部を流れるパッシグ川は、都市部のほとんどの排水の流末となるため、その水の水質悪化は特にすさまじい。水はどす黒く濁り、悪臭を放っている。DENR-NCR(Department of Environment and Natural Resources-National Capital Region)によって行われた調査結果によると、特に流量の少なくなる乾季には水質の悪化が著しく、所によってはBODが100mg/lに達し、DOはゼロになることも珍しくない。DENRは環境基準を「BOD:10mg/l以下、DO:5mg/l以上」と定めているが、現在のパッシグ川はこれを全く満たしていない。

 また、パッシグ川沿いには多くの不法居住者が住み着いており(図1-3-1)、下水の垂れ流しやゴミの投棄などが問題となっている。

 水路もやはり水質の悪化が進行していると見られ、悪臭を放っている。また、水路沿いにも不法居住者の住居は多数存在し、ひどい場合には水路そのものを完全に塞いでしまう場合もある(図1-3-2)。そのため、水路はとぎれとぎれとなり、排水能力の低下が懸念される。また、道路拡張等の目的で暗渠化される水路もあり、水路はますます減少していく傾向にある。

 水路やパッシグ川のこうした水質悪化の主な原因は、生活排水に含まれる大量の有機物であると考えられる。RRS(River Rehabilitation Secretariat)の見積もりによると、1997年の時点で、パッシグ川への汚濁負荷流入量(BOD)は、生活排水が60%を占めている(図1-3-3)。また、ゴミの投棄によるものも5%を占めており、生活系からの排出が合計で65%を占めることになる。こうした状況の背景には、人口の増加に対して下水道処理場やゴミ処理施設等のインフラの整備が全く追いついていないという現状がある。

 

1-3-2 下水道

 

 メトロマニラには7つ下水道システムがある。表1-3-4はデータの得られている主要な4つの系統についてまとめたものである。しかし、例えば最大の処理面積を持つマニラ・セントラルシステム(Manila Central System)は、マニラ湾沖に未処理で排水するだけのものであったり、管理の不十分さ故にパイプが詰まっていたりと、問題の多い下水道である10)

 しかも、これらの処理面積は合計でも46km2でメトロマニラのわずか7%をカバーしているにすぎず、処理対象地域内でも下水料金を払えない、もしくは払いたくないといった人も多いため、下水利用世帯数は合計でも111,250世帯(メトロマニラ全体の5.6%)である。

 これらの下水道に接続していない人々は、一部の例外を除いて浄化槽を用いている。しかし、その浄化槽も極簡単な仕組みのものが多く、そのBOD除去率は35%と低い10)。浄化槽も持たない人々は雨水排水系統へ屎尿を垂れ流している。

 

1-3-3 上水

 

 メトロマニラにおける主な生活用水の入手源を表1-3-5に示す。蛇口から出るいわゆる水道水を使っている人は占有、共有を合わせて73.3%、井戸水利用が15.7%、水売りからの購入が11%である。また、生活用水の使用量は、表1-3-6に示すように、メトロマニラ全体で地下水、表流水あわせて576百万m3/年(1994)で、1人1日あたりに換算するとおよそ167l/dayである。

 一般に、生活水準が向上すると水の使用量は増加するが、メトロマニラにおいても表からこの傾向が見られる。しかしその一方で、マニラでは年間降雨量こそ多いものの、降雨時期が雨季に集中しているため安定した水供給は難しいことなどから、水資源の不足は深刻な問題となっている。

 

 

1-4 本論文の構成

 

 本研究では、フィリピンのメトロマニラにおける水環境改善施策に関する基礎的研究を行う。以下に本論文の構成を述べる。

 第2章では、メトロマニラの抱える水環境に関する問題点を調べる。まずメトロマニラに関する調査資料を入手し、河川・水路の現状を社会的状況を踏まえながら分析する。次に本研究室で行われたパッシグ川の水質調査から、汚濁負荷必要削減量のオーダーを調べる。水路網に関しては状況調査を行い内水災害の実状を把握し、水路網整備の必要性について調べる。また貧困問題と水環境との関連を調べる。

 第3章では、メトロマニラの現状を踏まえた上で、水路網にかかわる事項を広い範囲にわたって整理し、水路の再生・活用の意味を総合的に考察した上で、水環境改善に向けた一つのビジョンを提出する。

 第4章では、前章で提案したビジョンに従って屎尿・生ゴミのリサイクルシステムを構築することを念頭におき、特に水路沿いに住む貧困層の生活に関わる水使用の現状、およびゴミ処理の現状を現地調査により把握する。

 第5章では、現状を踏まえた上で、水路網を用いたゴミ・屎尿処理システムをより具体化し提案する。提案の概要は、まずバイオトイレを用いて屎尿を各家庭で堆肥化する。次に水路網を用いて堆肥を郊外に運搬する。郊外に搬出された堆肥は農耕地で用いる。

 第6章では、水路網を用いたゴミ・屎尿処理システムの導入評価を行う。パッシグ川流域での導入イメージを検討し、導入に伴う水質改善効果を見積もる。また、期待できるその他の効果についても検討する。

第7章は、結論と今後の展望である。