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ジェネラリスト

 スペシャリストの時代といわれて久しい。大学の入試科目もどんどん減る傾向にある。大学においては、いわゆる教養学部が次々と廃止されている。そして早い段階から専門教育が行われる。今の日本では「専門的であること」が大いに評価されている。確かにこれらの言葉は聞こえがいい。
 一握りのスペシャリストと大勢のジェネラリスト。こんな当たり前の構図が崩れつつある。最近は、みんながスペシャリストであることを望んでいる。バブルの崩壊によって、つぶしの利かないジェネラリストの柔軟性のなさが目立ってしまったからであろう。スペシャリストの本来の意味は「専門家」である。「特別」で「専門的」で「並外れた」ごく限られた人たちだけであるはずだ。しかし最近のスペシャリストはちょっと違う時がある。スペシャリストとは、専門分野については何でも知っているという存在であるはずだ。ところが何を勘違いしたのか、専門分野のことしか知らないというふうになってはいないだろうか。私は理工系の大学出身なのだが、社会・政治・経済に関する知識が中学生並である学生も多い。「専門」の影に「無知」が隠れていることを意味している。
 ある程度難しい問題に当たるとき、ジェネラリストだけで厳しいものである。スペシャリストの出番は必ずある。しかしながら今日の状況に置いて、スペシャリストに要求されるレベルは決して低いものではない。やはり"本当の"スペシャリストは、必要である。スペシャリストはその質が問われる時代なのではないか。
 一方こんな状況に置けるジェネラリストはどうかというと、こちらもまた難しいところである。まずいえることは、基本的にいないのである。まあ確かに何でもできるということを、なにもできないと勘違いしたような低級なジェネラリストならどこにでもいる。しかしここで論じているのは、もっとレベルの高い"本当の"ジェネラリストである。高度な意志決定や状況判断をするときに必要とされるのはジェネラリストである。このようなケースでは、広い視野、知識などが要求されるからである。
 総スペシャリスト時代の到来によって、ジェネラリストを生み出すシステムが完全に失われてしまった。現在、日本が抱えている問題の根本を考えるとき、この問題を無視するわけには行くまい。