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日本における治水の歴史と近代化の分析

1.日本における治水の歴史

古代から中世までの治水事業
 われわれが主食にしている米を生産する水稲は、弥生時代初期に熱帯アジアを経て日本に渡来したといわれている。当時、水稲を行うための場所として、河川下流域の後背湿地、海岸の砂州、三角州などが選ばれたようである。しかし、水田を洪水から守り、少しでも収穫を上げようとすれば、なんらかの治水事業を施さねばならなかったはずである。
 古代日本においては、大規模治水事業は朝廷によって行われた。しかし、古代権力の統一力が衰退し、平安時代中期以降は、地域ごとに分散的な荘園体制がこれに変わってくると、権力も分散し大規模な治水事業は行いにくくなった。その後、地域分散的な支配階級がその力を失った後も、新しい勢力はなかなか現れなかった。その後、鎌倉時代に至り、僧侶が土木事業に力をふるってはいたものの、技術的支柱というよりはむしろ経済的援助に傾きつつあり、大規模な治水事業は行われず、生活の安定を願う農民の思いはなかなか満たされなかった。

戦国時代から江戸時代前期までの治水事業
 戦国時代にはいると、各地を治める武将が大きな力を手にするようになった。彼らは、土木事業の指揮者でもあった。なぜなら、土木事業を推進して配下の期待に応え、自分の治める領土の国力を上げることが、戦国時代を生き抜くためには必須であったからである。
 甲斐の領主、武田信玄(1521〜73)は、甲府盆地の治水、農業開発、金山開発など殖産興業に著しい成果を挙げたが、特に顕著な功績は、釜無川の信玄堤周辺、および笛吹き川の万力林周辺の治水事業であった。両地点とも治水の難所であり、ここが大洪水で押し流されれば甲府を中心とする盆地一帯が水没氾濫する要衝であった。
 信玄堤というのは、河川の氾濫から農耕地を守る堤防の一種であるが、現在われわれが目にするようなものとは全く異なっている。信玄堤は、霞提方式と呼ばれているもので、本堤防と川との間につくる不連続な堤防であり、現在の堤防と異なり完全に閉じてはいない。では、どのように開いているかというと、川の上流の方向を向いて開いているのである。洪水が起こったときには、当然川の水は堤防の外へ流れ出てきてしまう。しかし、ゆっくり流れ出てくるため、被害を軽減させることができる。霞堤方式とは、洪水と正面から戦って、それを治めることが不可能であることを前提とした上で、洪水の被害を最小限にくいとめようする仕組みになっている。
 江戸時代にはいると、関東平野においては、初代関東郡代の伊奈備前守忠次とその子孫が伊奈流と称される治水技術を駆使して、利根川・荒川水系を治めた。伊奈流では、大地を掘り割って川筋を付け替え、洪水の大流量に対しては堤防の越流を許す乗越堤や霞堤を用いている。乗越堤は、洪水を完全に押さえ込んでしまうのではなく、防げる範囲内で洪水を防ぎ、防げない規模の洪水に関しては、その越流を容認するというものである。越流を容認することにより、洪水の力がすべて堤防にかかってしまうのを防ぐような構造になっている。
 また、昨年河口堰の建設をめぐり、行政と住民が激しく対立した徳島県吉野川では、「蜂須賀さんの無堤防主義」という言葉が伝えられているように、長い間堤防を築いてこなかった。吉野川は、古くから「四国三郎」と呼ばれ、利根川の坂東太郎、筑後川の筑紫次郎とともに日本の暴れ川の代表の一つである。当時、徳島県の一帯は、蜂須賀阿波藩によって治められていたが、蜂須賀藩は吉野川の洪水を堤防によって押さえつけるような治水事業は行わなかった。その結果、稲作を行うことはできなかったが、洪水によって運ばれてきた客土を利用し、藍の育成に向いている土地利用を行うことができた。
 このように、戦国時代から江戸時代前期までの治水政策には、自然の営みである洪水を押さえつけようとする姿勢は見られない。洪水の発生をよく踏まえた上で、それを即水害にしてしまわないような政策、または、洪水による恵みを享受するような思想が見て取れる。

江戸時代後期から第2次大戦までの治水事業
 江戸時代後期になると、紀州流という技法が一般化する。この方式は八代将軍吉宗によって紀州から召し出され、勘定吟味役に登用された井沢弥惣兵衛によるもので、堤防を強固につくって川を統御しようとするものである。河道(河川)の屈曲を廃止して直線的に改修し、洪水を一気に押し流すようにした。洪水をこのように処理することにより、洪水が河道の外側にあふれ出てくることがなくなると考え、遊水池も新田として開発した。このような紀州流の治水事業が行われた背景には、治水技術の進歩、および将軍吉宗の米の大増収政策がある。紀州流はそのころまでに進歩した技術によって、洪水を完全に統御してしまおうとする思想を元にしている点で、江戸時代前期までに行われていた治水事業とは全く異なるものである。
 その後日本は、明治維新により本格的な近代化を進める。ヨーロッパへたくさんの留学生を送り込み、またヨーロッパから多くの学者・技術者を呼び寄せ、西欧の近代科学技術を積極的に輸入し始める。河川工学の分野では、オランダの河川技術を輸入した。オランダより招かれた、ファン・ドールンやヨハネス・デレーケといった河川工学技術者は、近代科学技術に基づく「近代河川工学」と呼ぶべき知識をもたらした。近代河川工法による治水事業のポイントは、河道の浚渫による低水路工事である。低水路工事は、河道を浚渫することにより河川の容量を上げ、洪水を河道に閉じこめることを目的とした。また、江戸時代後期の紀州流の治水技術、河道を直線化し洪水を一気に海まで押し流すことも同時に進めた。
江戸時代後期から第2次大戦までの日本の治水事業から分かることは、河川を人間の生活を脅かすものと捉えていることである。確かに江戸時代以前にも、河川が災害をもたらすものであったことは事実である。しかし、江戸時代後期以降、洪水と共生しようとする思想は見あたらない。あくまで、洪水を無くしてしまおうと試み、実際洪水と戦うような治水事業を行っている。この時期に、日本の治水観(つまり自然観)が変化した背景には、科学観・技術観の変化がある。欧米の近代科学技術が日本に紹介されるにつれて、人間の科学技術の力によって自然を征服できるのではないかという、欧米的自然観が日本の中でも抱かれるようになってきたのである。

第二次世界大戦後の治水事業
 第二次世界大戦後、日本はアメリカの強い影響力の元、復興へ向けて歩み始めた。第二次世界大戦によって、日本の国土や経済は著しく荒廃した。このような状況の中で、治水事業はアメリカのTVA(テネシー川流域開発公社)の治水政策を手本にした。TVAは、ルーズベルト大統領の時代に設立されたもので、経済恐慌に陥っていたアメリカ経済を立て直すための経済政策として行われた。TVAは1933年からテネシー川に26の多目的ダムを建設し、水害を防止するとともに、巨大な電力、水資源、舟運などを開発し、アメリカでも最も疲弊していたといわれるテネシー川流域の地域開発に成功した例であり、20世紀前半を代表する総合開発として高く評価されている。日本では、第二次世界大戦後により荒廃した経済を立て直すために、TVAの手法を参考にした。このように、TVAを手本にした総合開発は、経済的には成功したといってもよい。1950年代後半から日本の経済成長率は急上昇し、いわゆる高度経済成長が始まる。このような成果をもたらした背景には、TVAを手本にした総合河川開発があったと言える。
 明治時代に確立された治水事業と第二次世界大戦後のそれとが異なる点は、治水事業が経済政策と密接に結びついたことの他に、治水のためにダムの建設を行うようになったことである。明治時代後期から大正時代の間には、発電用の利水ダムが多数建設されたが、大規模な治水ダムの建設は行われていない。1926(大正15年)、土木技術者の物部長穂によって洪水調整用の大ダム建設が提唱されているが、技術力が及ばず実現できなかった。戦後にはいると、アメリカの大ダム建設技術を取り入れることにより、大規模な治水ダムの建設が可能になった。そして、このことはその後の大ダム建設ラッシュの時代を迎えることになる。
 治水ダムの役割は、ダムにより洪水をいったん受け止めるということである。これは、自然の力を科学技術によって制御しようとする思想の現れである。このような意味で考えると、第2次世界大戦後の治水事業は、明治時代以降の近代的治水観の延長にあるものといえる。

2.治水の脱構築

アメリカにおける脱ダム宣言
 日本が大規模ダム建設の手本にしたアメリカにおいては、近年治水事業の見直しが行われている。その嚆矢となったのが、開墾局総裁ダニエル・ビアード氏の発言である。D・ビアード氏は、1994年5月に行われた国際灌漑排水会議において、「アメリカにおけるダム開発の時代は終わった」と発言した。
 アメリカにおいてダム建設を行う主体は3つある。TVAと開墾局が利水ダムの建設を行い、陸軍工兵隊が治水ダムの建設を行っている。開墾局は西部の開拓をすすめるための事業を行うために設立され、利水ダム建設もそのような地域経済政策の一環として行われている。その開墾局が脱ダム宣言を行ったこと理由は、産業構造の変化により利水ダム建設によってもたらされる利益が減少したことである。利水ダムは、主に発電と農業用水確保のために用いられている。近年、発電の主力は火力発電や原子力発電となってきている。また、農業用水確保のためのダムも飽和状態に近づいており、これ以上のダム建設によってもたらされる利益は少ない。このことは、TVAが行ってきたような総合開発はもう不要であるということであり、産業構造の変化と社会が経済的に十分成熟したことを示している。
 また、ダム建設・運用は常に環境破壊を引き起こす。アメリカ・日本に限ったことではないが、環境に対する人々の価値観が変化したことにより、環境破壊に対する異議申し立てが頻発している。このように、以前は経済的価値の前では、あまり省みられることのなかった自然環境の価値が見直されるようになってきたことも、開墾局の脱ダム宣言につながっている。
 開墾局による利水ダムの脱ダムに続き、治水ダムを建設してきた陸軍工兵隊も治水事業の方針を少しずつ変更しつつある。1993年に、ミシシッピ川・ミズーリ川において、大規模な洪水が引き起こされ、流域に甚大な被害をもたらした。この大水害の結果、陸軍工兵隊は、従来の治水事業であるダム建設・築堤などの「構造的アプローチ」(structural approach)には限界があり、これらの手法により水害を無くすことは不可能であると宣言した。そして、これからは「構造的アプローチ」に加え、「非構造的アプローチ」(non-structural approach)を導入する方向性を打ち出した。ここで、「非構造的アプローチ」とは、事前警報システムの完備・上流域の保水機能の確保・洪水保険の充実などの政策を指している。
 陸軍工兵隊による治水事業の変更は、科学技術により自然をコントロールしようとしてきた従来の治水観が立ちゆかなくなっていることを示している。このことは、われわれの近代的自然観・科学観・技術観に変更を迫るものではないだろうか。

日本における治水観の変化
 第2次世界大戦後、日本はアメリカの治水政策を手本にしてきた。そのアメリカが脱ダム宣言を行ったことは、日本の治水観にも大きな影響を与えている。
 2000年12月19日に発表された、国土交通省河川審議会の答申では、「ダムや堤防だけに頼らず、川はあふれるという前提に立って流域全体で治水対策を講じるべきだ」とする提言をまとめ建設省に提言した。アメリカの陸軍工兵隊による治水事業の転換とほぼ同じ内容である。
 また、2001年(平成13年)2月20日、長野県の田中康夫知事が脱ダム宣言を行った。脱ダム宣言では、「コンクリートのダムは、看過(かんか)し得ぬ負荷を地球環境へと与えてしまう」「100年、200年先の我々の子孫に残す資産としての河川・湖沼の価値を重視したい」などと謳われており、自然環境を保護するために、ダムを造るべきではないと主張している。
 実際に、長野県には、下諏訪ダムという多目的ダムの建設が予定されているが、それに関して、「下諏訪ダムに関しては、未だ着工段階になく、治水、利水共に、ダムに拠(よ)らなくても対応は可能であると考える」と述べ、現行の下諏訪ダム計画を中止することを宣言している。
 このように、日本においても治水観の見直しが行われている。アメリカだけではなく日本においても同じような治水観の見直しが行われている背景には、近代社会がその背後にある自然観・科学観・技術観を変更しなければならない時期に来ていることを表しているのではないだろうか。

3.今後の課題

 それでは、今まで見てきたように治水観が変化してきたことを踏まえ、今後の治水事業が向かうべき方向性について考えてみたい。
 日本では、江戸時代前期まで、河川の危険を十分に知った上で、河川がもたらす恵みを享受するような治水事業が行われていた。当時は、河川のさまざまな側面を踏まえ、自然と人間が共生できるような思想があった。そのような自然観は、科学技術の進歩とともに失われ、人間が科学技術を用い河川を完全にコントロールしようとする自然観に変わってしまった。その後、河川を完全にコントロールできないという現実の前に、科学技術の限界を認めることになる。そして、現在では、河川を完全にコントロールすることは不可能であるため、治水の目的を、洪水の発生を前提とした上で被害を最小限に食い止めることとしている。
 では、このような状況で課題となるのは、どのようなことであろうか。近代的なダムや堤防により洪水を河道に押し込めようとする治水事業は、洪水というリスクを日常生活から排除するという意味を持っている。今まではそのようにやってきたが、洪水の発生を前提とするということは、洪水というリスクをどのように処理するのかを考えなければならなくなることを意味している。
 アメリカでは、洪水は自然災害であるから、個人がリスクを背負うべきであるという方向性を打ち出している。もともとアメリカは小さい政府を基本にしており、社会システムのさまざまな部分に自己責任原則が組み込まれている。しかし、日本でもアメリカのおなじような自己責任原則を、今すぐ組み込むには無理があると考えられる。日本における治水事業の今後の課題は、日本なりのリスク・マネージメントの制度とそれを支える思想を考えることである。

(参考文献)
高橋裕,1990,「現代日本土木史」彰国社
合田良實,1996,「土木と文明」鹿島出版会
長尾義三,1985,「物語日本の土木史」鹿島出版会
天野礼子,2001,「ダムと日本」岩波新書
公共事業チェック機構を実現する議会の会[編],1996,「アメリカはなぜダム開発をやめたのか」築地書房
今田高俊,1987,「モダンの脱構築」中公新書