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コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。




3カ所追加

在日コリアンの来歴 なぜ日本に住むようになったのか

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強制連行者は戦後ほぼ帰国済み / 強制連行の実態 / 強制連行・朝鮮と台湾

朝鮮人渡日の原因と総督府の施策 / 密航


まずは典型的な反日コリアンの"お説教"から
「朝日ジャーナル」1988年2月26日号 (在日韓国・朝鮮人に問う 佐藤勝己 1991 亜紀書房より)
1988年2月26日付「朝日ジャーナル」誌上で辛淑玉さんは
「仮に北が日本人を拉致したとしても日本人は批判できるだろうか。戦争中、膨大な数の朝鮮人を国家の名の下に拉致した歴史的な事実がある。いまなぜ日本に多くの朝鮮人がいるか考えてみてほしい。自国の歴史を忘れた発言が多すぎる」
と言っている。



反日コリアンが日本人を黙らせる「決めゼリフ」 で「われわれは日本政府によって強制連行されてきた」というのがあります。

反日マスコミや左翼教師に洗脳された人たちがこの言葉を聞くと、『銃剣で脅されてトラックに無理矢理乗せられた善良な朝鮮人達が、日本に送り込まれて炭坑で重労働させられる』 という酷い場面等を想像して思考停止に陥り、相手に反論できず言い分を聞いてしまうということが多いようです。
まるで水戸黄門の印籠を見せられた小役人のようです。 (笑) 

しかし資料を見ると実は強制連行でそのまま住みついたという人々はごく少数であることが分かります。反日マスコミや反日コリアンはこの事実を知ったうえでの報道・発言でしょうか?

在日コリアン1世のほとんどが強制連行(徴用)と関係ないことは彼ら自身の調査で明らかです。
「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊
アンケート調査実施の概要

1.調査の対象 在日韓国人で1910年〜45年の間に日本に渡航してきた者(ただし、渡航時に満12歳未満の者は除く)
2.調査の時期 1982年10月25日〜1983年1月15日
3.調査の方法 国民登録台帳をもとに各地方に居住する在日朝鮮人の人数にほぼ比例するように調査票を割り当て、訪問面接による聴取を行なった。
 アンケート回収数 1106名
これによると、大部分は本人の自発的な意思で渡日したもので、いわゆる"強制連行"が原因で日本に住みついた人は全体の13.3%しかいないことが分かります。しかし早い時期に渡日した人はすでに亡くなっていること、また家族の一員として渡って来た12歳未満の子供は含まれていないので割合はこれより下がります。さらに戦後渡ってきた者(密航?)を含めるとさらに低下します。

上記資料の分析で徴用(強制連行)数に疑問を呈しています。どうやら本当の強制連行者はさらに少なくなるようだ。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89 原書房 (グラフは「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」より)
現在の在日韓国・朝鮮人の大部分は強制連行と無関係

さらにここで指摘しておきたいことは、在日韓国・朝鮮人(その父祖を含め)と、 強制連行との関係である。朝鮮大学校編「朝鮮に関する研究資料(第四集)」によ れば、「日本に住んでいる大きな部分を占める朝鮮人は太平洋戦争中に日本の官憲 によって強制徴用され……」とあり、在日韓国・朝鮮人は口を開けば必ずのよう に、「われわれは日本政府によって強制連行されてきたものだ」と主張する。だが この表現は正確ではなく、むしろ事実に反するというべきだと思われる。

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸年は上の表のようになっている(表省略・昭和20年9月1日以前の日本上陸者の内8万3030人の調査)。この表によると日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の53.7%と、半分以上になる。昭和11〜15年はまだ民間の自由募集の期間だし、次の昭和16〜19年の中でも、国民徴用令による徴集は昭和19年の9月以降のわずか4ヵ月間であるから、単純に計算すると、この期間に徴用されたものは昭和16〜19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人(全体 の1.46%)にすぎないことになる。これに、次項「昭和20年9月1日以前」 の679名(0.8%)を加えた概算1889人(2.3%)ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人だということになる。かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17年2月〜19年8月来日者の推計数を全部加えても、約1万1300人余(14%)にすぎない。この推定は、昭和16〜19年間の月間 来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運航は終戦が近 くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、昭和19年後半の来日徴用者も減少し ているはずである。すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%を大 きく超えることはまずあるまい。

民団も韓国青年会も自認

この数字は在日韓国人自体の調査によっても裏付けられている。1988年2月に 発刊された「”我々の歴史を取り戻す運動”報告書」(在日本大韓民国青年会中央本部)には、全国千百余人の一世から直接聞きとりした調査結果が収録されてい る。これによると、渡日の理由として「徴兵・徴用」は13.3%にすぎず、経済 的理由(39.6%)、「結婚・親族との同居」(17.3%)に次いで3番目で ある。この13.3%のうち、徴兵は0.5%で、残りが徴用ということになる。

しかし、「渡日年度別に見た渡日理由」によると、徴用は1926〜30年に6 人、1931〜35年に9人、1936〜40年に51人とある。国民徴用令が公布されたのは1939年7月であって、これが朝鮮に適用されたのは前述のように 1944年9月であるから、この「徴用による渡日という」回答は思い違いによる ものと考えられる。従ってこの人数はのぞかねばならない。 1941〜45年の徴兵、徴用と答えた76人も、その大部分は記憶違いというよ りほかはない。徴用が実施されていた1944年9月以降終戦までの一年分だけを 前期の方法で算出すれば16人、すなわち全体の1.5%にしかならない。また、 法務省の数字のアンケート調査の場合と同様、官あっせんを徴用と考えても(1942年2月以降)59人=5.4%となり、徴兵を加えて5.9%である。  
民団発行の「法的地位に関する論文集」(1987)にも「1世の大半が1930年代初期に渡航して永住するに至った経緯からすると……」と、みずから、徴用による渡来が僅少であることを認めている。

このことは理屈の上から考えても当然のことであろう。着のみ着のまま徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていた者が、日本に残ろうと考えることは想像しがたいことである。彼らは日本の一般社会とほとんど関係なく生活してきたのであって、言葉もろくに出来ず、日本で生活していく基盤ももっていない。彼らは日本に来て、一番長い者でも (官斡旋を徴用とみなしても) 5年そこそこなのであるから、故郷とのつながりは十分持続しているはずである。特に彼らは、妻子を置いて一人だけで徴用されており、その移動はきわめて容易であった。これら徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、この、"恨みの島"から故郷へと飛ぶようにして帰ったものとみられる。

在日青年会の調査を分析すると本当の強制連行者といえるのは全体の1.5%に過ぎないようだ。広く解釈しても5.9%である。

実地調査でも「在日1世強制連行少数説」は裏付けられています。
「在日韓国・朝鮮人」 福岡安則 1993 中公新書
私は、1988年以降、若い世代の人たちを中心に150名余りの在日韓国・朝鮮人からの聞き取りを実施してきたが、自分の親もしくは祖父が「強制連行」で日本に連れてこられたという人には一人も出会わなかった。ただ一人伯父が「強制連行」で北海道の炭坑に連れてこられ、そこで「事故死」にあった("殺された"といっていいと思う)という事例を聞いているだけである。
(中略)
私の調査体験をもって、安易な結論を導き出すことは慎まなければならない。だがそれにしても、文字どおりの「強制連行」で日本に連れてこられた人達の大部分は母国に帰り、それ以前に仕事を求めて渡日してきた人たちが中心になって日本に残留した、という一般的傾向が認められると思う。


「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
徴用された朝鮮人は、終戦と同時にほとんど帰国しており、今日在日朝鮮人が声高に、自分たちの父母は『強制連行』されたと言い立てるのは、他に目的あってのことと考えざるを得ない。
かつて朝鮮人学校で父母の来日動機を調査したところ、『朝鮮では食えないから渡航して来た』という回答がほとんどで、『強制連行』と答えたのは一人しかいなかったので困惑したという報告があるそうだが(田端元「好太王から朝鮮滅亡後まで」十六)、さもありなんという気がする。


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徴用(強制連行)の実態
戦時中の朝鮮人労働者内地導入には3段階あったことと徴用令の関係を理解しましょう。
「教科書が教えない歴史 (4)」 藤岡信勝 平成9年 扶桑社
「1939年(昭和14年)から1945年までの間に約70万人もの朝鮮人の人々が強制連行によって日本につれてこられたとされています。」.

中学校の教科書では上のように強制連行という言葉を使っています。そして、いやがる人に暴行を加え、手錠をかけて無理矢理連れて行く様子を描いています。それが6年間続いたと教えているのですが、本当でしょうか。

1938年(昭和13年)に、日本の国会で国家総動員法(国民徴用令は1939年)が成立しました。この法律によって、15歳から45歳までの男子と、16歳から25歳までの女子を、国家は徴用できるようになりました。「徴兵」が兵士になる義務であるように、「徴用」とは、戦時に一定の労働に従事する義務のことです。多くの若者が出征し労働力不足が深刻になり、その穴を埋めるためにやむなくこの法律を作ったのです。

徴兵と同様に、国民は、通知された場所に出頭し、指定された軍需工場などで働きました。当時の日本国民のほとんどは、この徴用を国家非常時の当然の義務だと考えていましたから、進んでこれに応じました。

さて当時、法的には「日本国民」であった台湾や朝鮮では、この法律はどのように適用されたのでしょうか。台湾では、日本本土と同時に徴用令が施行されましたが、朝鮮では施行されませんでした。その代わり、日本企業が朝鮮で自由に労働者を「募集」することを許可しました。それまでは、朝鮮人労働者が大量に本土に流入すると失業者が増加するので、日本政府は朝鮮人労働者の移住を制限していたのです。制限を取り払ったので、多くの朝鮮人労働者が日本にやってきました。

けれども、1942年(昭和17年)になると、さらに人手不足は深刻になりました。朝鮮でも、総督府が自ら乗り出して朝鮮人労働者を集めなければならない状況になりましたこれを「官斡旋」といいました。官斡旋は、面(村)ごとに人数を割り当てました。そのため、役所から就職先を斡旋された場合、それは義務に近いものとみなされされましたけれども、朝鮮における官斡旋は、本土や台湾における徴用と同じではありません。それは、官斡旋で労働現場に来た朝鮮人労働者が就職先を辞めても、罰則がなかったことです。例えば、ある朝鮮人労働者は、官斡旋で本土に来たのですが、なじめなかったかすぐに辞めています。そして、友人を頼って朝鮮人経営の土木会社に就職しました。正規に住居移転の手続きをして、食糧の配給も受けています。
朝鮮にも「徴用」令が施行されたのは、1944年(昭和19年)になってからでした。けれども、総督府では、なるべく自分の意思で徴用に応じてほしいと願い拒否した者への罰則の流用を控えました。そのため目標の達成率は79パーセントにとどまりました。

1944年11月末に徴用令を受け取った鄭忠海氏は次のように書いています。

「…後を振り返りながら、別れの言葉もそこそこに集合場所である永登浦区庁前の広場に向かった。広場は出発する人、見送る人で一杯だった。徴用者の点呼が終わると一同は隊伍を組んで商工会議所の前に集まり、各地から動員された人々と共に壮行会が催された」(「朝鮮人徴用工の手記」河合出版)

鄭氏は、その後広島の東洋工業に入社し、終戦時までここで働いて帰国しました。本書には、寄宿舎生活の様子や被爆体験、日本人との交流などが綴られています。

これは教科書が描き出す「強制連行」のイメージとはまったく異なっています。


「日韓誤解の深淵」 西岡力 1992 亜紀書房
また、いわゆる「強制連行」の実態に関しても、一般で認識されているのとはかなり違う実態があったことが少しずつ明らかになってきている。たとえば朝鮮総督府が行なった土建労働者の「官斡旋」による道外募集(いわゆる強制連行の一部とされている)では、使用者に対して賃金、待遇などで労働者を厚遇するようにかなり細かく指示している。たとえば飯場料は賃金の二分の一以下とするとされており、借金づけによるタコ部屋化を禁じている(くわしくは広瀬貞三「『官斡旋』と土建労働者」、『朝鮮史研究会論文集』第29集参照)。

また、1944年に広島の軍需工場に徴用された鄭忠海氏は90年に日本で出版した手記(『朝鮮人徴用工の手記』河合出版)の中で、新築の寄宿舎で新しい寝具が準備され、食事も十分で満足でき、仕事は日本人女子挺身隊員といっしょであり、「女性たちとの恋だの愛だのということに心をうばわれているようで、工場内の風紀は言葉にならないほどだった」と書いている。

先述のように戦争のために国家総動員法による徴用には法的強制力があった。それにより韓国人が強制連行されたが、同様に大多数の日本人も「強制連行」されたというのが歴史の真実なのである。


戦争初期には朝鮮人は日本人・台湾人に比して優遇されていたのが分かる。「官斡旋」の段階でも本人の希望で就職先を変えられることから"強制連行"というのは大げさな表現だ。

コリアン・反日左翼は「募集」の段階から"強制連行"だとしているが、当時朝鮮から日本内地へは渡航制限をしていたが、密航してでも出稼ぎしようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で強制連行の必要があるのだろうか。"強制連行"などしなくても労働者は確保できたのである。
「岩波講座 世界歴史19 移動と移民」 水野直樹・他 1999年 岩波書店
1930年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。

戦前の新聞記事見出しより
『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26  
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20  
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕  
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版  
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕  



在日朝鮮人人口の推移
在日朝鮮人人口動態 内務省警保局統計 
年度 在日朝鮮人数 増加人口数(前年比) 特記
1910 . . 韓国併合・朝鮮で「土地調査事業」〜1918
1915 3989
1916 5638 1649
1917 1万4501 8863
1918 2万2262 7761 第一次世界大戦終了・日本で米騒動
1919 2万8272 6010 朝鮮で3.1独立運動起こる・朝鮮人の渡日制限〜1922
1920 3万0175 1903 朝鮮で「産米増殖計画」〜1934
1921 3万5876 5693
1922 5万9865 2万3989 日本への「自由渡航制」
1923 8万0617 2万0752 関東大震災
1924 12万0238 3万9621
1925 13万3710 1万3472 再び日本への「渡航制限」〜1938
1926 14万8503 1万4793
1927 17万5911 2万7408
1928 24万3328 6万7417
1929 27万6031 3万2703
1930 29万8091 2万2060 日本に世界恐慌が波及
1931 31万8212 2万0121 満州事変(日中15年戦争の始まり)
1932 39万0543 7万2331 満州国建国
1933 46万6217 7万5674
1934 53万7576 7万1359
1935 62万5678 8万8102
1936 69万0501 6万4823
1937 73万5689 4万5188 盧溝橋事件で戦火拡大
1938 79万9865 6万4176 国家総動員法が成立
1939(昭和14年) 96万1591 16万1726 国民徴用令が成立(朝鮮に適用されたのは 1944年9月から)
「募集」 日本企業が朝鮮で自由に労働者を募集することを許可
1940 119万0444 22万8853
1941 146万9230 27万8786 真珠湾攻撃で日米開戦
1942 162万5054 15万5824 「官斡旋」 総督府が朝鮮人労働者を募集
1943 188万2456 25万7402
1944 193万6843 5万4387 「徴用」 法律により労働を強制された
1945(昭和20年) 210万0000
(諸説あり)
. 終戦
1946年3月18日 64万7006 . 厚生省による在日朝鮮人の登録 (この時登録しない者がいたので100万人程いたと書く本もあり)
.
1999年末 54万6553 . .

昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画の実態
「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
◇その多くは自発的に来日

誤解の第一は、終戦時約200万人を数えた朝鮮人労働者の大部分は本人の自発的な意志によって渡航して来たもので、『強制的』に『連行』されたものではない、ということである。いわゆる『強制連行』は、大東亜戦争勃発に伴う労働力不足を補完するため、戦争中の昭和17年(1942)に、それまで自由募集であった朝鮮人労働者を『官斡旋』、すなわち朝鮮総督府が募集することにし、間に立った朝鮮人ブローカーが強引な徴用を行ったことを指して言う場合多いようだが、その実態ははなはだ不明瞭である。

そもそも日韓併合以降、貧しい韓国から豊かな日本へ移住しようとする朝鮮人は引きも切らぬ有り様だったのであり、朝鮮総督府や日本政府は法律の網の目をくぐってでも日本で働こうとする朝鮮人の密航者には、終始頭を痛めていた。法律を犯してでも日本に入国しようとする朝鮮人が一杯いたというのに、何で『強制連行』の必要があるのだろうか。その必要はなかったし、むしろ日本側は迷惑していた。昭和4年(1929)の『瀬戸方面に於ける朝鮮労働者事情』(名古屋地方職業紹介所)によれば、朝鮮と日本内地の賃金格差は二倍もあり、これに加えて毎年30万人に及ぶ朝鮮人の人口増加により、内地のみならず満州やシベリアへも多数の朝鮮人が移住しつつあった。日本内地への渡航希望者は度重なる日本側の規制にも拘わらず増加の一途をたどったのである。

昭和14年(1939)、内務省次官通牒『朝鮮人労務者内地移住に関する件』で、8万5000人の朝鮮人労働者の移住が認められると、炭坑の募集係のところには朝鮮人農民がどっと押し寄せ、夜中から列をなして待っていた有り様であったという。

また、同年の国民徴用令の公布をもって朝鮮人『強制連行』の起源と誤解している著作が多数見受けられるが(朝鮮人強制連行真相調査団「強制連行、強制労働の記録」、朴在一「在日朝鮮人に関する総合調査研究」等)、国民徴用令が朝鮮人にも適用されたのは昭和19年9月のことであり、厳密に言えば朝鮮人の徴用が行なわれた期間は昭和19年9月から関釜連絡船の閉鎖された昭和20年3月までの6ヶ月間に過ぎない

◇徴用は強制連行ではない

誤解の第二は、『徴用』は『強制連行』ではないということだ。当時、内地でも日本人は戦時『徴用』されていた。併合の結果として日本に編入された以上(植民地ではない)、日本人たる朝鮮人を戦時『徴用』しても、『強制連行』の概念には当らない。今日の価値観を、体制の異なる戦時中にそのまま適用するのは歴史解釈として間違っている。

産経新聞  平成12年9月26日 西岡力氏の寄稿
自民党の野中広務幹事長の「かつてわが国が36年間植民地支配をした時代に、朝鮮半島から(強制)連行してきた人たちが、今70万人といわれる在日を構成している」という発言を本紙で読み、事実に対するここまでの無知はないと驚きを超えて怒りすら覚えた。明確な事実誤認が三つある。

第一は、昭和14年から開始された朝鮮人内地移送計画により渡日した者とその子孫は現在の在日の中にほとんどいないという点だ。終戦時の在日人口は約200万人であり、そのうち移送計画による労働者は32万人に過ぎない。占領軍の命令によって日本政府は引き揚げ船を準備し、運賃無料、持ち帰り荷物制限230キロまでという条件で帰国させた。昭和21年末までに約140万人が朝鮮に帰っていき、自分の意志で残留を希望した約60万人が日本にとどまった。引き揚げにあたっては移送計画により渡日した労働者が優先とされている。結果として、32万人の「連行者」はほとんどこのとき帰国している。このことは在日一世の渡日時期調査によっても裏付けられている。

第二は、そもそも上記の朝鮮人内地移送計画の実態が「強制連行」などというものではなかったという点だ。計画期間中、在日人口は120万人増加する。各種統計を総合すると、このうち出稼ぎ渡航者とその家族が63万人で過半数となる。戦時中、労働者不足が激しかった内地に向かい朝鮮人は自分の意志で大量に渡航していたのだ。前記の32万人が終戦時における戦時動員労働者である。残り25万人は「官斡旋(あっせん)」「徴用」で渡日した後、現場を逃走し条件のよい飯場などで働く「自由労働者」(当時の用語)となった者である。昭和20年内地における朝鮮人土建労働者を見ると、計画による動員労働者一に対して自由労働者七の割合であった。日本政府は移送計画実施期間中も内地に密航した朝鮮人を取り締まり朝鮮に送り返していた。こちらこそが本当の強制連行だ。「官斡旋」「徴用」は出稼ぎで建設現場などで働こうとしていた朝鮮人労働者の働き先を炭鉱、金属鉱山など軍事産業に転換させるというものであり、それは全渡日者のうち四分の一だけしか対象にできず、ほぼ失敗した政策だったのだ。

第三は、戦前から継続して日本に在留しつづけている在日韓国・朝鮮人(子孫含む)でいまだに外国籍を維持したままの者は70万人ではなく約52万である。日本政府は彼らに「特別永住」という他の外国人にはない特別に優遇した法的地位を与えている。社会保障制度も日本人と同じ扱いがされ、その地位は子孫代々まで保障されている。この52万人以外の在日韓国・朝鮮人はいわゆる戦後入国者だ。

外国人地方参政権付与は基本的事実関係すら知らない与党幹部によって推進されている。事実に基づかない安易な贖(しょく)罪意識は百害あって一利なしだ。参政権が欲しければ帰化手続きにより日本国籍をとればよい。すでに23万人以上の韓国・朝鮮人がそれを選択している


反日プロパガンダが保守政党にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか。いずれにせよ立法府の由々しき事態だ。

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朝鮮と台湾では同じ植民地でありながら徴用(強制連行)に対する受け取り方がまったく異なっています。あなたはどちらが真実に近いと思いますか?
朝鮮人の強制連行(徴用)について中学校教科書に書かれたものです。
「国民の油断」 西尾幹二・藤岡信勝 1996年 PHP研究所
次の教科書の記述を見てほしいのです。

[強制連行のようす]
町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたりしだい、役にたちそうな人はかたっぱしから、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用というが、人さらいですよ。(大阪書籍、260ぺ−ジ)

[朝鮮人強制連行]
警察官や役人が土足で家に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました。抵抗する者は木刀でなぐりつけ、泣きさけびながらトラックに追いすがる妻子を上からけりつけたともいわれます。(東京書籍、264ぺージ)

[朝鮮・中国から強制連行された人々]
金大植さんは、1943年2月、家で寝ているところを警察官と役場の職員に徴用令状をつきつけられ、集結地まで手錠をかけられたまま、125名の朝鮮人同胞とともに日本に連行されてきた。(教育出版、262ぺ−ジ)

すべてこういう調子です。


Link 日本政策研究センター / 朝鮮人「強制連行」問題とは何か(上) / (下)
『「人さらい」同然の連行、「使い捨て」さながらの酷使、それに堪えかねて逃亡する朝鮮人……しかし、そうした「強制連行」論は、あまりにも戦時動員や労務事情と違っている』

戦争末期に深刻化してきた内地の労働者不足を補うための朝鮮人労働者内地移入では一部に行過ぎがあったようで、強制連行を主張する韓国人の証言を読んでいると、農作業中などに無理矢理トラックに乗せられて日本内地へ送り出された、というのがあるが、それらを実行したのは内地人ではなく朝鮮人なのである。
「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
(灰色文字は管理人注)
(著者の鎌田澤(沢)一郎は、戦前の朝鮮に16年間滞在し、京城郊外に民族経済文化研究所を設立した朝鮮研究家で、6ヶ年にわたる宇垣総督の政策顧問を勤めて、農村振興運動の推進に大いに貢献し、朝鮮の民生向上に大きく貢献した人物で、戦後その経験を買われて、セマウル運動(新しい村運動、実質的には宇垣政策を発展させたもの)の指導のために何度も韓国に招かれている。)

もつともひどいのは労務の徴用である。戦争が次第に苛烈になるにしたがつて、朝鮮にも志願兵制度しかれる一方、労務徴用者の割り当てが相当厳しくなつて来た。納得の上で応募させてゐたのでは、その予定数に仲々達しない。そこで郡とか面(村)とかの労務係が深夜や早暁、突如男手のある家の寝込みを襲ひ、或ひは田畑で働いてゐる最中に、トラックを廻して何げなくそれに乗せ、かくてそれらで集団を編成して、北海道や九州の炭鉱へ送り込み、その責を果たすといふ乱暴なことをした。但(ただし)総督がそれまで強行せよと命じたわけではないが、上司の鼻息を窺ふ朝鮮出身の末端の官吏や公吏がやつてのけたのである。


「朝鮮人強制連行」という言葉を造語し世に広めたのは、朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」という本であるといわれているが、この中で強制連行があった証拠として、上記の鎌田沢一郎著「朝鮮新話」が引用されているが、傍線を引いた朝鮮人が暴走して実行したという部分はなんと無視されているのだ。両書を見比べていただきたい。
鎌田澤(沢)一郎著「朝鮮新話」320ページ 朴慶植著「朝鮮人強制連行の記録」1965年未来社発行70ページ


引用書籍のページ
まだまだあるぞ「朝鮮人強制連行の記録」のデタラメ (怒)
Link 中共・朝鮮・左翼の歴史改竄 真実よりプロパガンダ! / 朴慶植の卑劣な削除改竄
歴史教科書の一部には強制連行の実態として『田畑で働いていた朝鮮人を有無を言わせずトラックに乗せ日本内地の炭鉱などに送り込んだ』等と書いているが、総督府の方針を曲解暴走して人さらい同然の行動を起こしたのは朝鮮人自身であったことを明記すべきだ。

このような非道な行動を起こす朝鮮人の性格を警告している文章があるので紹介しよう。
李朝末期の朝鮮に滞在したアメリカのメソディスト派宣教師で、ジャーナリストでもあり歴史学者でもあったホーマー・ハルバートは著書「朝鮮亡滅」(「醜い韓国人」朴泰赫 1993年 光文社より)の中で、『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするいう努力があわれにもないのに、社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』と述べている。

台湾人の"強制連行"が教科書に書かれることはない。事実を書くと反日教科書の編集方針と合わなくなるからか?(笑)
韓国人の「反日」 台湾人の『親日」 黄文雄 1999 光文社
「朝鮮人の強制連行」問題の著作物は、地方の公立図書館へ行くと、意外なほど多い。戦前の日本国内では、朝鮮人の犯罪者が多かったので、いかにして朝鮮半島からの人の流入を釜山港で阻止するかに悩み、たびたび朝鮮総督府に有効な対策を求めていた。だが、「朝鮮人の強制連行」問題の著書があれほど多くても、「犯罪」「入国阻止」関連研究書は、大学図書館でさえほとんど見いだすことが困難だ。
(中略)
韓国人の著述には、「日帝36年」について「強制連行」「強制労働」「強制徴集・徴用」と表現することが多いが、その「強制連行」とは、じつは大陸文化そのもので、戦争や動乱があるたびに、住民が「強制連行」されたことは、中国史にも、朝鮮史にも繰り返し書かれている。しかし、日本文化は、中国社会や朝鮮社会とはかなり異なる。近代になって、台湾に対しても、朝鮮半島に対しても、いかなる公的な義務労働であろうとも、多かれ少なかれ、工賃を払うのが日本的なやり方であった。このことからも、日本文化は、中国や韓国の社会文化とはまったく違うことが判明する。

台湾領有初期の日本軍の征伐戦争・戦記、日記を見ると、住民を略奪しながら敗退、逃亡した清国兵士に対してさえも、米と銭を与え、船で港から大陸へ送還した。地方の村長、長老を集めて訓示した後でも銭を与え、細かい気配りをしていた。そのような日本的気配りは、中国や朝鮮半島では、絶対に見られないことだ。

韓国人の「日帝」糾弾のバターンは、たいてい決まっている。それはあたかも日帝のすべての悪事悪行が隠蔽されてきたが、それが次から次へと考古学や犯罪事件摘発のように発掘されていくという図式である。

第二次大戦末期に、台湾からも多くの少年工が来日している。しかし、彼らは「強制連行」ではなく、厳しい選考をへて、来日が許可されたのだった。
「強制連行」については、台湾人の子供まで連行され、海軍飛行場の建設工場で、酷使され、息を引き取ったと韓国有力紙に報道されたこともある。

この「子供強制徴用の実態」に関して、あたかも「歴史発掘」のように、韓国では一時、歴史捏造に狂奔した。

「東亜日報」(91年10月23日付)は、「神奈川県で12から18歳の台湾少年工8000名が、軍需工場で強制労働させられていたことが明らかになった。しかし、8歳の少年強制労働と火葬というのは、ひょっとすると日本全国で初めて確認されたことではないだろうか」と日本の大学教授の発言を引用して報道している。

日本の反日大学教授も不勉強であるが、韓国のマスコミも「反日」の話題でさえあれば、なんでもかんでも派手に報道するという姿勢は問題であろう。

じつは、台湾少年工についての歴史捏造と歪曲ほどひどいものはない。

戦争末期、台湾から日本に来た8000名の台湾少年工は、主に名古屋、大和市、群馬県の戦闘機工場で働いた。彼らは「強制連行」ではなく、厳しい筆記試験に合格、さらに身体検査にも合格、校長と両親の許可を得て来日したものであった。「強制連行」どころか、現在でいえば「東大入試」の狭き門をパスした誇りある少年たちである。私が直接彼らから聞いたところでは、「隼」以外に「ゼロ戦」をつくったという人もいた。

彼らは現在「高座会」をつくり、生存者は70歳前後になっているものの、なおも5000人以上の会員を有している。会誌も発行されている。十数歳の台湾少年工の作詞、作曲した会歌は、日本の寮歌に似ていて、合唱するとじつに感動的である。

彼らは日本人の友人との絆が強く、94年の大和市の大会では、2000人以上の会員が台湾から来日し、大和市は、交通大渋滞となるほどであった。当時、日本のマスコミは、彼らを「強制連行」と報道したため、自尊心を傷つけられ、会長が会員全員を引き連れ、新聞社へ抗議に行くという話もあったほどだ。

戦争末期の米軍空襲下でともに働いてきた台湾人と日本人は、上官と部下の関係のみでなく、その絆もなかなかに強い。私は台湾から来た昔の少年兵を連れ、かつての日本人仲間の病気見舞いや、老後の不遇者の生活の面倒に奔走する戦友を案内したこともあった。日帝の「暴挙」ばかりを追及してきた韓国人には、日本国民として育てられ、ともに国家の存亡をかけた情熱と戦友としての絆は理解できないだろう。この5000人以上の証人について、日本人ももっと「歴史」を勉強する必要があるのではないだろうか。

彼ら韓国人が、いかに「強制連行」「虐殺」「追害」だけを喚(わめ)いているかを示唆するような話ではないだろうか。

徴用を強制連行と呼ばせるのは悪質な反日プロパガンダ

韓国人が強制連行を問題とするなら、なぜこれが取り上げられないのか?
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
しかし韓国人が日本に対してだけ怒りを向けるのも、論理的ではない。太平洋戦争前に、ソ連のシベリア沿海州に30万人以上の韓国人が住んでいた。ところが、スターリンがこれらの韓国人が日ソ戦争が起こった場合に日本に協力することを恐れて、中央アジアへ強制移住させた。スターリンは妄想にとらわれた暴君だった。カザフ科学アカデミー朝鮮民族センターの調査によると、移住する過程で12万人が死んだ。だが、政府も、マスコミも、ロシアに対して抗議の声をあげることがまったくなく、友好的である。

明らかにダブルスタンダードだ。"強制連行"問題が反日政治運動の一環であるのが分かる。

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考証 : 朝鮮人渡日の原因となった朝鮮総督府の施策
スペース空きスペース 在日コリアン1世強制連行説を声高に唱えない人は、かわりに、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと言います。

しかし本当のところは総督府の近代医療・衛生施策の成功で人口が爆発的に増え、その朝鮮の過剰人口が移民を促したのです。(現在の韓国は世界有数の人口密度で戦後はアメリカへ移民し続けた)
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朝鮮総督府は土地調査を行い近代国家の基礎となる土地所有権を確立した。係争地では土地所有を認められる者と認められない者が出たが、日本人によって土地を奪われたというのは事実誤認である。
李朝時代の土地所有と利用状況
「朝鮮」 金達寿 1958 岩波新書
元来朝鮮には土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、彼らは土地の管理をせずに収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせきりであり、しかも舎音が何段にも重なって中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。

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日本が土地調査を進めて農民たちから農地を取り上げたというのは事実誤認である。
「NOといえる教科書」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
井沢
さてこの時代になると韓国の教科書の記述は一方的で、これはある意味で予想されたことですが、中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。まず「土地の侵奪」という項です。要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。土地所有関係を近代的に整理するという理由をつけてのことだったけれども、しかしその登録方法がむずかしいのと、反日意識のため、登録しない農民が多かった。登録されない土地は持ち主がいないということになって、朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。

藤岡
それは歴史の歪曲です。どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、農民の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。封建社会においてはヨーロッパでもそうでしたけれど、近代的な意味での土地所有権というのは、はっきりしていないんです。実は何重にも権利が重なっているということがあります。日本の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、近代的な意味での土地所有権という慨念を確立したわけですが、日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。つまり朝鮮総督府の最大の功績の一つは、土地の所有権を認めたということです。つまり農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を公権力が保障したということなんですよ。これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。たしかにその過程でいろんな混乱はあったでしょうし、不平、不満も出たことでしょう。

井沢
たとえば権利が重層しているような場合ですね。両方が争って、どちらか一方に決まれば、もう一方の側としては、奪われたということになりますね。

藤岡
そういうことはあったとしても、全体として、この施策は明らかに朝鮮の近代化に役だったはずです。現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、持ち主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、その比率はごく微々たるものです。
山本有造氏の「日本植民地経済史研究」(名古屋大学出版会刊)によると、こうした理由で総督府に接収された上地は約12万町歩、また定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないために接収された土地は2万7000町歩で、合計14万7000町歩ということです。1922年(大正11年)の時点で朝鮮における全耕地面債は450万町歩ですから、土地調査により総督府が接収した土地は全耕地の3%ということになります。ちなみに同年の日本人農業者所有土地面積は17万5000町歩、東洋拓殖という国策会社の所有土地面債は8万町歩で、計25万5000町歩です。これも全耕地面積の5.7%にしかなりません。

井沢
それがこの教科書では、何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読めますね。韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。ここで引いた教育出版のものでは「土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった」、大阪書籍では「韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて農民たちから多くの耕地を取り上げ」と、韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。

井沢
なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。そもそも近代的な土地所有権の確立されていない国は、近代化できないんです。これは鉄則です。ものを作るにしても何にしても、まず土地の所有が確定してないとどうしようもありません。総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。中国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。もっとも、朝鮮政府でも1895年に、量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。このことは付け加えておいていいでしょう。

藤岡
黄文雄さんは、日本が行なった土地調査を「総督統治の朝鮮に対する最大の功績の一つ」といっています(「中国・韓国の歴史歪曲」光文社刊)。


「中国・韓国の歴史歪曲」 黄文雄 1997 光文社
たとえば、豊臣秀吉が天下統一後に行なった「太閤検地」は、歴史上の画期的なできごとであった。朝鮮総督府が行なった朝鮮の「土地調査」は、朝鮮史ではよく「土地強奪」とされているが、それはまったく次元の違う話である。近代国家としては、土地所有権の確定と、税制の確立は絶対に必要条件であるが、それは朝鮮総督府の税源の確保だけが目的ではなく、道路、鉄道、水力発電をはじめとするインフラ建設から近代農業の経営等々にも、正確な検地は絶対に必要であったのだ。

近代国家の最低条件の一つとしては、まず明確な領土領域状況の把握からはじまる。朝鮮は2000年の歴史を持つというわりには、農地の単位が曖昧にして原始的であった。たとえば「一斗落ち」とか「一日耕」という田畑面積単位があっても、単位計算が不明確で、農民の土地所有権も確立していなかった。いつ国家に没収され、あるいは追い出されるかわからない。土地は、たいてい圧倒的少数の貴族が所有し、農民と所有者の間に幾層もの中間管理人が介在していた。

だから度量衡の統一、地権の確立、人口調査、インフラ整備には、正確な土地調査が必要である。朝群総督府は、スタートと同時に土地の所有権、価格、地形地貌などの調査を開始し、1918年に完成をみた。正確な検地は、総督統治の朝鮮に対する最大の貢献の一つと数えるぺきであろう。

結果的には、多くの隠し田が発見された。当初、約272万町歩の農地が、検地の後に433万町歩にもなった。

韓国人学者は「土地の強奪」と主張するが、国策会社の「東洋拓殖」が買い占めた耕地面積は、約4%にすぎなかった。半数以上の農民の土地所有権が確立されたことが、歴史的事実である。台湾での日本資本の製糖会社が買い占めた10%以上の土地に比ぺても、わずかであった。それでも台湾においては「日帝の耕地強奪」という話を耳にしたことはなかった。

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.李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。
「図説 韓国の歴史」 1988 金両基 河出書房新社
晋州民乱(1862年)当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。剰余生産物の蓄積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知ることができる。

朝鮮王朝末期の自作農が3〜4割で、小作農が6〜7割だったという農村調査報告は、このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。いわゆる三政紊乱(田税・軍役・還穀の乱れ)により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。
(中略)
乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。

.朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。
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在日コリアンは、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと主張していますが、当事者である在日1世の多くが土地調査事業が行なわれたことを知らないのです。 
「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊
在日1世1106名のアンケート調査結果から

<土地調査事業の周知>

「日帝が行なった『土地調査事業』をご存知ですか」と尋ねたところ「知っている」「聞いたことがある」と答えた人は4分の1(25.1%)であり、「知らない」と答えた人のほうがはるかに多い。
当人たちが知らない"土地調査事業"を渡日理由にしたというのは、後知恵だろう。(笑
という訳で『土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく日本に渡ってきた』という主張は、どうやら正しくないようです。
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日本は朝鮮農業を近代化して農民(大多数の国民)の生活向上を実現した。欧米型植民地経営とはまったく違うこの現実を見れば「朝鮮を収奪した」という言葉はあてはまらないはずだ。
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悲惨な状態だった李朝時代の農業環境と朝鮮農民 .
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李朝時代は農業土木が遅れていて自然任せの不安定な農業だった。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
朝鮮半島は、地形的には脊梁山脈が縦走しているので、日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、朝鮮海峡側に注ぐ河川には大河が多い。また、有史以来、大規模な治山、治水は、ほとんど行なわれておらず、自然のままで放置されていた。雨季はだいたい7、8月ごろで、台風の来襲も同時期に集中しているので、洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自然生態史をつくってきた。

わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。日本の河川に比べて、流水量は二倍もあるのに対して、渇水期の流水量は、日本の河用の十分の一から二十分の一にすぎない。

朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、ほとんど自然のままの状態で荒廃していた。李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わずかに都邑のみにおいて、堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。

朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、あるいは河水を堰き止める石木や土でつくられた「ボク(上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、これを水路によって下流地方の平野に導水する)というものは、決して絶無ではなかった。はるか1500年前の新羅時代に有名なペタコル池(堤)という一大堰堤(岸長1800歩)があり、歴代王朝に堰堤の修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、山河がしだいに荒廃し、堰堤らしいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えることがなかった。

李朝の歴史記録によれば、堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわれる。しかし水利関係者が、「万石堤」と称する貯水池以外は、ほとんどどこかに消え、荒れ果てている。農事潅漑はたいてい腕力による。流水の汲み上げに限る足踏み水車も、まれにしか見られなかった。天水に頼り、農業はきわめて原始的である。


河川堤防がなく、灌漑設備もないため耕作できない土地が広大にあった。
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飢餓と疫病 "生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち
「朝鮮」 金達寿 1958 岩波新書
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とによって死んだものは、前二者(秀吉軍・モンゴル軍)との戦争による死亡者よりも多く、飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病による死者5〜60万を数えたといわれ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち
フランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。
「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに は、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、 「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。  しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを 放置しておく道を選んだ。」(朝鮮事情・平凡社東洋文庫)

朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。旱害、水害、風害、ひょう害、霜害、病虫害が、間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然である。そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農ほ、大なり小なり、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。


李朝時代は現在の北朝鮮のように餓死者のでる国だったのだ。
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搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。

そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。

李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、「私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか」ときいたところ、「耕せぱ耕すほど、税を取られるだけのことだ」という返事があった」(「朝鮮の悲劇」 F.A .マッケンジー)と書いている。


絶望の世界に生きていた朝鮮人。働いても自分すら養えないという、これほど理不尽な話はない。
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日本統治によってまともになった農業環境と朝鮮農民 .
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総督府により農業基盤整備が行われ、朝鮮人農民に多大な利益をもたらした。 
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
日本は鉄道の敷設と、河川敷きの整備工事を並行して行なった。水防工事によって得られた農耕地は、日本人地主のものとなった。水防工事や水利工事は、韓国人農民にも多大な利益をもたらした。韓国人農民も水利組合をつくったおかげで安心して農耕ができるようになったから、損はいっさいなかった。全国的に護岸工事が行なわれた結果、耕地面積が飛躍的に増大した。

李朝末期の韓国は、道路や、農地、山、河川、港湾など荒廃しきっていた。私たちの村では、鉄道建設工事と水防工事が、春窮季(チュングンキ)に行なわれたから、村人は大いに助かった。農村はこの時期、いつも食糧が底をつき、収入もなかった。

李朝末期まで、民衆は官吏と地主と高利貸(トンノリ)によって責めたてられて、生き血を吸われていた。高利貸は立稲先売(イップトソンメ)といって、貧民から収穫を引き当てにして、高利で金や米を貸した。両班も長利米(チャンリサル)といって蔵に蓄えた米を高利で、常人に貸し付けた。日本時代になってから金融組合ができたので、農民は、安い金利で融資を受けることができるようになった。今日でも韓国では高利貸が横行して、貧しい人々の生き血を吸っているが、李朝時代に発しているものだ。


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朝鮮農民の手本だった日本人農民(労働が報われる時代がやってきた)
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
日本人の朝鮮半島に対する「土地強奪」間題としてよく批判されているのは、日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。日本人は両班(ヤンバン)ではあるまいし、法治国家の国民である。これほどの歴史歪曲があろうか。

朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、せいぜい一割にすぎなかった仮に「二束三文」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。

(中略)
移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着し、農民は生活が向上している。

日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。開墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少なくなかった。

たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。李完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、水田にもならない不毛の地であった。

当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を強奪するよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行なう者が多かった。日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの農業革命をまき起こしている。

農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない光景であった。当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。

雨や雪の日の労働を忌み嫌い、冬季になると室内に蟄居(家のなかに閉じこもり)して、無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に従事し、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であったそして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡った。

そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、他人に顔を見せることを恥としていたが、婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。

日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった、日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。

「土地の収奪・搾取」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たしてきた。その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないのだろうか。まことに遣憾である。

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朝鮮農業近代化に尽力して感謝された日本人
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。

(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。


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総督府の農業政策が成功して米の収穫が倍増
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
朝鮮産米の生産性は、どれだけ向上したか
日本の農務省による『韓国土地農産調査報告』によれぱ、1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。「日帝36年」の朝鮮統治で、米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。有史以来、年産1000万石以上を一度も超えたことのなかった朝鮮産米生産量は、昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。それは歴代総督が、食糧生産の充実と米殻生産性の向上に並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。


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総督府による農業政策の成功で飢饉がなくなり餓死者がいなくなった事と、近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったうえ乳幼児死亡率の低下で人口が爆発的に増加していく。 (なんと植民地36年で倍増)

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
伝染病問題は、朝鮮半島で飢饉以上に頻繁に発生した。飢饉に続いて、連鎖的に疫病が襲いかかった。もちろん、それは朝鮮半島に限らず、中国大陸においてもそうであった。朝鮮半島では、17世紀の中葉ごろから、平均2.6年に1回の割合で疫病が大流行した。趙珠氏の『19世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識』198ぺージ)によれば、17世紀の中葉ごろ〜19世紀の中葉の間に、年間10万人以上の死者を出した疫病が6回もあった。1749年の全国大疫病では、死者50万人以上とも記録されている。「民乱」や「倭乱」、「胡乱」といった戦争以上に、朝鮮半島の人命を奪ったのは、ほかならぬこの疫病の大流行であった。著名な自由主義者で、植民地論者の新渡戸稲造は、「植民地経営の要は、衛生の改善にある」という植民地論を展開したほどである。

李朝は、天災と疫病のたび重なる発生をそのまま放置した。李朝末期となると、朝鮮の高官たちは、ほとんど政権争奪に明け暮れ、いわゆる「三政紊乱」‐−政治腐敗、官庁の綱紀紊乱、官吏の横暴が絶頂に達し、もはや治山、治水や疫病を退治する余力がなくなっていた。


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日韓併合以前のソウル・釜山は極めて不衛生な都市だった。伝染病がしばしば起こり多くの人々が死亡した。
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993 光文社
当時の韓国を訪れた外国人は筆をそろえて、いかに不潔だったかに、驚いている。

ビショップ夫人は「ソウルは汚ないことと臭いことでは、世界一である」と書いている。「25万人の同市民は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動(しゅんどう)していると形容したほうがよいだろうか。その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。路傍には悪臭が芬々(ふんぷん)とする溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と、獰悪(どうあく)な犬とによって占領せられている」

「市街の中心を西から東へ流れる下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている」

「南山の中腹に日本公使館があるが、木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。その麓に日本人居留地があり、約五千人の日本人が小さな天地をつくっている。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい」(「三十年前の朝鮮」バード・ビショップ 1925年)


「炎は流れる 第3巻」 大宅壮一 昭和39年 文藝春秋
統監府の外務部長として赴任した小松緑の書いたものによると、
『京城の町なかでさえも、家という家はみんな額のつかえそうな低い屋根に泥ぬりの荒壁というありさま。それに道路がせまい上に、石塊出没して凹凸状をなし、そのそばの土溝(どぶ)には、たれ流しの糞尿が縦横にあふれ、汚臭紛々として鼻をつき、息もつけない。この穢路(わいろ)の奥にあった一軒の日本家が著者の借住居であった。そこへ統監府から時々書類をもって往復する小使でさえ、通るたんびに命がちぢまるといっていたくらいだから、その非衛生的穢状が察せられるであろう』

そこで、何かの折りに、小松は伊藤博文にそのことを話したが、
『やせてもかれてもここは王城の地だ。そんなことがあるものか』
といって信じなかった。だが、たまたま小松の家で催された囲碁の会に博文が出席して、小松の話がウソではないことを知り、さっそくツルの一声で、統監官邸のある南山のふもとに、日系官吏のために官舎が建てられることになったという。

「悲劇の朝鮮」 アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
釜山で朝鮮が私に与えた第一印象は、さほどいいものではなかった。道は狭く不潔で、家屋は低くて見栄えがしなかった。日本のように人目を引く商店や、古い寺などもない。四方から悪臭が漂い、戸外にはごみが積もり、長い毛をだらりと垂らした犬が集まってきては食べ物をあさっている。あちこちに乾上った下水道があるが、そのべとべとした底ではいろんな汚物が腐りかけている。そしてその中で髪の毛の長い子供たちが遊んでいる。朝鮮の海辺の村落を通り抜け、車夫らは道がより広く比較的きれいな、日本風の市街地へ向かった……

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総督府による近代医療・衛生制度の導入で伝染病死が減ったことと、乳幼児死亡率の低下で人口が大幅に増加していく。韓国人と反日左翼は総督府の植民地経営の善政を一切認めないが、これは輝かしい成果の一つではないのか?
「醜い韓国人 朴泰赫」 1993 光文社
日本統治時代に入ってから、医療衛生制度も確立された。日本が韓国を統治したあいだの輝かしい成果の一つが、病幕(ビョンマク)の設置だった。日本統治時代に入ったころでも、腸チフスや、発疹チフス、赤痢、コレラ、痘瘡が猛威を振るったために、しばしば住民の一割ぐらいが病死した。それまでは予防医学の知識がまったくなかったので、伝染病による死者がでると、その家の井戸の上に筵(むしろ)をかけたうえで、厠(かわや)を焼き払った。厠は家の外につくられていた。

日本統治時代が始まると、村単位にそれぞれの村から離れたところに、伝染病患者を隔離する病舎をつくった。多くの場合は、そのような場所にあった貧しい家を買って、改装したものだった。

私が少年だったころには、通学路の途中に、道から150メートルほど離れた田園のなかに病舎があったので、子ども心に恐ろしく思ったものだった。多いときには、80人近くの病人が収容されていた。

それまで韓国では儒教思想のために、家で死ぬことを理想化して、家の外で死ぬことを客死(ケクサ)と呼んで、惨めな死とみなした。そこで父母や、兄弟が病幕で死ぬことがあると、日本人が自宅で死ぬ権利を奪ったとして憤慨するようなことさえ多かった。

しかし、病幕と国立、あるいは道立病院がつぎつぎと建てられるようになると、患者が隔離病棟に収容されるようになったので、伝染病は姿を消すようになった。私たちの村では病幕が、私が小学五年生になったときまであった。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998 光文社
朝鮮半島の近代医学の普及は、きわめて遅かった。朝鮮総督府以前には、大韓帝国政府樹立後、ソウルに京城医専、同付属病院の創立を皮切りに、公済病院、赤十字病院が次々と設立されたものの、いずれも規模が小さかった。本格的近代医学医療制度の導入は、朝鮮総督府の時代からで、この三院の統合、拡充と大韓医院の設立からである。大韓医院はやがて発展して京城帝大付属病院となり、朝鮮半島の近代医学、医療発展の中心的存在となった。1909年から慈恵医院の官制が発布され、その後、地方の医療制度は、清州、全州から、順次各地方で確立され、医師の養成と疫病の防止に全力が注がれた。さらに150万円の下賜金から済生会がつくられ、李朝以来の階級制度の廃止とともに、各道から市町村にいたるまで、地方の隅々まで医療制度が整備され、賎民でも国民として、近代医療の恩恵を受けるようになった。

各開港都市と国境都市は、1910年から厳しく防疫、検疫を実施し、疫病の進入防止に積極的に取り組んだ。コレラ、天然痘、ペストなどの大流行は、1918年から20年の大流行を最後に、やっと猛威を振るわなくなり、とくにコレラの大流行は、この年以降なくなり、乳幼児死亡率が激減した。中国大陸では1930年代に入ってからも、相変わらず疫病が全国各地を襲いつづけていたのとは別に、疫病の朝鮮半島侵入が医療制度の普及によって阻止された。まさしく天国と地獄ほどの隔世の感である。朝鮮半島が大陸からの疫病襲来を阻止したのは、朝鮮総督府時代からであると言える。

朝鮮総督府の統治は、このほかならぬ近代医学による衛生環境の改善と疫病の僕滅によって、インフラの整備と同様に、いやそれ以上に、朝鮮半島の生命保全、韓民族の繁栄に大きな貢献をなしえた。今日、この分野に関してあまり語られていないのは、じつに驚きである。朝鮮総督府はインド、中国から朝鮮半島にわたって、猛威を振るっていたハンセン病退治のために、救ライ事業として世界的規模を誇り、もっとも完備された施設を持つ小鹿島更生園をつくって、6000人以上を収容した。このような破天荒的な努力について、朝鮮の近代史研究者は、なぜ語ろうとしないのであろうか。


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朝鮮人人口の推移、急激な増加がみてとれ李朝時代と比べると倍増している。 総督府は農地開拓を進めて農業人口を増やしたが、それ以上に人口が増加した。
「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
年次 総数 (注)年末常住人口・1944年は5月
1910 1312万8780人  (注)初期の調査は精度が低いとされている
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人 (この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた
ココ重要です。朝鮮人渡日の原因を強制連行と土地収奪に求めている反日連中は、人口の爆発的増加を無視しています。HPや関連書籍を読む時ぜひチェックしてみてください。
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人口の増加は日本だと商業・工業の発展で吸収していったが、朝鮮の場合過剰人口は半島外に活路を求めた。北部の者は満州へ農業移民となり、南部の者は日本へ賃金労働者として移り住んだ。これが現在の在日コリアン1世である。
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農家の過剰人口である土地を相続できない次男三男は、分家の手段として日本での労働・移住を選んだ。
「朝鮮経済の史的断章」 近藤康男 昭和62年 農山漁村文化協会
朝鮮農村の人口流出メカニズム

昭和15年日満農政研究会東京事務局の報告書『朝鮮農村の人口排出機構』は、南鮮の人口流出の実情を客観的に分析した価値高いもので、以下はその要約である。
(中略)
(分家する場合)零細農の次男以下の場合は、親から所有地を分譲されることのないのは言うまでもなく、結婚費用も出して貰えないので、大体10年近く朝鮮内で年雇生活をして得た貯蓄で結婚をし、雇い主などから若干の土地を借入れて独立するのが唯一の分家の方式であった。しかし用地難に加えて主従関係が昔のようでなくなったので、年雇から小作農に独立という途は狭き途となった。

そこへ日本の労働市場の開放は小農の分家方式の新しいひとつとなった。……分家方式をとった日本への移住者も渡航当初は大部分が無配偶者であったが、それが結婚費用を稼いで妻を迎えたのである。……彼らは日本に分家の手段だけでなく定着の場所をも見つけているのである。これまでは、日本で多少の貯蓄をすれば故郷に帰って、結婚と分家をし、また土地を購入することを目標にもって海を渡ったものであるが、今やこのような夢はすてている。

生活意識が高まるにつれて、朝鮮農村がその安住の地でなくなるのである。若い者は、日本へ出発の当初から、出稼ぎ心理というより、自由な社会生活を求める移住の気持ちが強く作用している。これは次男三男に限らず、夫や長男の場合においても、妻子を同行ないし呼び寄せたり、あるいは日本で結婚して定着する傾向が強くなっているのは否めない事実である。……日本へ渡航した者で昭和8年ごろから帰村者の減少傾向が著しい。これも同じく出稼ぎより移住へを示すものであろう。

日本でも生活意識の変化で、若者が農村の生活を嫌って都会へ流出していった。同じようなことが朝鮮でも起こったのであろう。
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農家を相続できない次男三男が仕事を求めて日本に渡って来たというのは、在日1世の平均渡日年齢が19.1歳と非常に若いことからも推測できる。
「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊
在日1世1106名(ただし渡日時に満12歳未満の者は除く)のアンケート調査結果から

なお同調査によると男性の渡日理由第1位は"経済的理由"で女性の第1位は"結婚・親族との同居"となっている。
「土地を奪われた農民が仕事を求めて日本にやってきた」という主張が間違っているというのは、土地を所有していたと考えられる壮年層の渡日がほとんどないことからも推測できるのではないだろうか。(もっとも、この調査時点(1982年)で亡くなっているのかもしれないが)
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朝鮮人の内地移住は、朝鮮では食べていけない貧困層の過剰人口が内地へ押し寄せてきたものである。
「新版 在日朝鮮人―歴史と現状」 1991年 山田照美・朴鐘鳴編 明石書店
法務研究報告書第43集―3「在日朝鮮人処遇の推移と現状」(1955年刊)では、朝鮮人の日本への移住の原因を次のように述べている。

通常、民族の移動は、窮迫と誘引に原因し、その窮迫は食物の欠乏、または実際的に同一に帰するところの人口過剰の結果による。朝鮮人一般労働者の日本内地移住の原因もこれであり、具体的には、左の三点に帰する。
(イ)日本統治下において、朝鮮人人口が異常に増加したこと。
(ロ)その増加人口の主体をなした南朝鮮の農民の生活の窮迫がはなはだしく、耕地と切り離された農業労務者が多かったこと。
(ハ)当時の日本内地の経済社会がそれらを労働力として要求したこと。

そして、さらに同書は「農村の過剰人口の流出は、朝鮮だけの現象ではなかった。日本内地の農村においても、その増加人口を養うことができず、働き盛りの者は、都市や鉱工業地帯に流入していた。朝鮮人の日本内地流入は、朝鮮を含めた日本国家内の一社会現象としての視野に包摂し得るものであるが、また、それと同日に談じ得ない特殊な民族社会の背景があった」という。

また、近年、日本の法務省入国管理局が編纂した「出入国管理の回顧と展望―昭和55年度版」(大蔵省印刷局、1981年刊)でも、在日朝鮮人について、
大正中期以後になって、数多く我が国に移住するようになったが、その主な原因の一つは、朝鮮本土の人口増加であった。日本統治が開始された明治43年末に約1300万人であった朝鮮の人口は、終戦前には3000万人に近い数(朝鮮本土に2500万人強、日本内地、満州、華北、ソ連などに400万人強)に達していた。特に南朝鮮における農村の過剰人口が、鉱工業の未発達な朝鮮内では吸収されないために、低賃金労務者として日本内地に渡航することとなった。その移住は、初めは近距離のための出稼ぎ的な往来から、漸次、都市・工場・炭坑地帯に定住するようになり… と述べている。

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反日コリアンは、朝鮮人が日本内地で働くことを余儀なくされたのは、総督府が朝鮮の商工業発展を抑圧していたから雇用場所がなかったためだと言うが、元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に産業化できるわけがない。日本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。
「こんな「歴史」に誰がした」渡部昇一・谷沢永一 平成9年 クレスト社
渡部
日清・日露戦争当時の朝鮮というのは、底知れぬ貧乏国でした。単に近代産業がないというレベルではありません。農業生産にしても、とうてい日本とは比べ物にならないものだった。「春窮(しゅんきゅう)」という言葉があるくらいで、秋に収穫した米も春を迎えるころになると尽きてしまうというのが珍しくなかった。収奪なんてできるわけがない。
また当然、商業なども発達していませんでした。日清戦争の後に、陸軍軍人であった柴五郎が朝鮮を旅行したときに驚いたのは、朝鮮には銀貨も紙幣もなくて、銅銭だけがあったということでした。つまり、当時の朝鮮には高額の貨幣が必要なかったのです。そして、その銅銭もシナから輪入した銭だった。

谷沢
日本で言うと、平安時代末期から鎌倉時代の状況です。つまり、コリアの経済は日本よりも800年遅れているわけです。(中略)李氏朝鮮においては商業は卑しいものだと思われていた。


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「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。
農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる・箒・綱・紐・ござ・それに必要な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。

特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、徒弟期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀である。普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。たとえば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋と窯を作り、近隣の人のために雑器や土壷、時に大きな容器を作ったりするが、薪がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作業所などできはしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。したがって利潤はほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない

朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは容易に結論づけることができる。自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取り引きが市で行われている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。
朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だと思っている。もっとも一般的なのは5割・6割で、時には10割もの利子が要求される。
商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。

日韓併合以前の李氏朝鮮時代は"中世"であったことを認識すべきだ。近代産業を興せる人材は一人もいなかった。

Link 日韓関係の近現代史
 日韓関係論文

スペ結論ース

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あまり語られることのない不法入国者(うまくいけば在日コリアン1世になれた?)
「在日朝鮮人の生活世界」 原尻英樹 平成元年 弘文堂
サンフランシスコ講和条約発効以後大韓民国からの不法入国が在日朝鮮人の親戚を頼るなどの形をとって行なわれたが、その実数は把握できない。検挙された者の数のみを表7に示すが、密航に成功した者がどれだけいるか定かではない。

成功したものは後になって特別在留という形で在留を許可されろケースもあるが、不法入国のままの者もいると思われる。

隣国韓国から日本には実に容易に行けるので、密航の取り締まりは簡単にはいかない。夜の日本海には大小無数の漁船が浮かんでおり、海上保安庁の係官は挙動不審の船を彼らの勘でかぎ分け、その船のみを取り調べるという。

しかしながら、密入国者が日本で生活を続けるためには彼らを援助する親戚・知人が必要であり、また日本語能力と関わって働く場所も限定されるので、密航者家族の生活は勿論のこと、単身者での生活も容易でないことが想像される。

1945年 終戦
1948年 大韓民国成立
1948年 朝鮮民主主義人民共和国成立
1950年 朝鮮戦争勃発
1952年 サンフランシスコ平和条約発効

密入国者はかなりの人数にのぼるようだ。
朝日新聞 1955年8月18日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)
65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという。

朝日新聞 1959年6月16日 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹より)
密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ。

朝日新聞 天声人語 1959年12月15日
韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる。

Link 産経新聞 / 昭和25年(1950年)6月28日(水)付朝刊
終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる。
密航ではないかもしれないが千葉市の韓国・朝鮮人街栄町に住む韓国人の7割が不法残留者
Link asahi.com千葉 / 
企画特集 [このまちで 栄町讃歌]

「コリアン世界の旅」 野村進 1996 講談社
日本敗戦による「解放」の喜びもつかのま、済州島は大混乱の予兆をはらみつつあった。8月15日以降、日本本土のほか戦前の樺太や満州、南方などに徴用でとられたり移住したりしていた人たちが、一斉に帰郷してきたのである。15万人の島内人口は、あっというまに倍以上の30数万人に膨れ上がった。香川県ほどの広さの、痩せた火山島には、彼らを養う余地などどこにもなかった。食糧事情は、目に見えて悪化した。日本の植民地下では許されなかった買占めや売り惜しみが横行した。敗戦国・日本に見切りをつけて帰ってきたところが、故郷の窮状たるや日本どころではないではないか。やむなく日本にまた引き返していく人々が、皮肉なことに「解放」の翌年あたりから急増する。これに追い打ちを掛けるように、1948年から49年にかけて、済州島史上最悪の惨事が起きた。島全体が戦場と化して、虐殺と放火と強制移住に覆い尽くされた、いわゆる「済州島4・3事件」である。(島民3万人が殺された)
(中略)
逃げ場は日本しかなかった。命がけの選択の結果が日本への密航だった。彼ら密航者たちは『潜水艦組』と称され、近年の中国からの不法入国船と同様の小舟や漁船で、着の身着のまま日本に辿りついている。『潜水艦組の1人』という50代のある男性は、日本人の『常識』とは逆のことを私に告げた。
『済州島(出身者)だけじゃなく、在日の半分以上は、密航で来たんだと思うんですよ
在日のほとんどは、強制連行で連れてこられた1世かその子孫ではないのか。
『いや強制連行で来て、今もいるという人は非常に少ないです。強制連行で来た人たちは、軍需工場なんかに徴用された人も、密航で働いた人も、戦後かなりの人が帰っているか亡くなっているんですよ』

次の2点を明記しておきたい。強制連行された朝鮮人のほとんどは、戦後間もなく日本政府の計画送還で帰国していること。在日1世の大半は、戦前から日本に住みつづけているか、戦後、密航できたのかどちらかであるということ。これらは研究者の間ではすでに定説となっているのだが、日本人一般には正反対の言説が『事実』であるかのように漠然と信じ込まれてきた。その最大の原因は日本のマスコミの認識不足だが、在日の特に知識人が往々にして『私たちは無理やり連れてこられた』といった言い方をしてきたことにも一因がある。 …だが『無理やり連れてこられた』といった表現には。明らかに強制連行のニュアンスがこめられている。日本人側が在日についてあまりにも知らないことが問題なのは言うまでもないが、在日側もこうした表現をいわば"切り札"にして日本人との議論を断ち切ってしまう場合が、ままあったのではなかろうか。

Link 在日済州島人の「不法入国」から「特別在留」獲得まで

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在日自らが語る密入国  『トロク組とドンブリ組』
「在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え-」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房
「在日」と密入国  元秀一 (灰色文字は管理人注)

在日朝鮮人を形成するのははたして<トロク組>だけだろうか。<トロク組>とは外国人"登録"証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人をさす。では、あえて<トロク組>とかっこでくくるからにはそれと対になるものがあると考えられはしないか。それこそが<ドンブリ組>にほかならない。密航船に乗って日本に"どんぶりこ"した朝鮮人を抜きに在日とはなにかと発問したところでそらぞらしさだけが残る。
(中略)
では、次に<ドンブリ組>の実態論に移ってみることにしよう。一体に、<ドンブリ組>の大半が済州島出身ということは何を意味するのか。このことは済州島を故郷に持つ在日朝鮮人が大阪市(とりわけ生野区)を中心に9万人にのぼることと無関係ではない。日常性のひだに裂けた暗闇から日帝時代<君が代丸(大阪―済州島航路の客船)>に乗船していち早く日本に「金儲け(トンボリ)」しに来なければならなかった歴史性が浮上する。日帝時代の生活苦という鬼神が解放後なお跋扈し済州島の人間をして「金儲け(トンボリ)」するべく日本にかりたてている。たいがいは大阪市(とりわけ生野区)を中心に偏在する縁故を頼っての密入国だ。もっとも、<ドンブリ組>の密航目的は「金儲け(トンボリ)」だけに限定されるものではない。「金儲け(トンボリ)」を密航目的のその一つとして次にその他の目的を列挙してみる。

そのふたつ。「1948年4月、アメリカの強行による南朝鮮だけの単独選挙、単独政府樹立に反対して立ち上がった済州島4・3武装蜂起」(金石範「在日の思想」)が動因で引き起こされた虐殺から逃れた「難民、亡命者といった性質」をもつ密航。このケースでは解放された祖国に帰ったものが多数ふくまれている。日本への逆流現象。金石範氏は「現在の在日朝鮮人のあり方を規定したともいえるだろう」(「在日の思想」)と指摘している。

そのみっつ。アメリカのベトナム侵略が泥沼化したことで韓国政府がベトナム派兵を決定した1965年以降現れた「徴兵忌避」を目的とした密航。ほかに「離散家族の再会・同居」「思想的に拘束を受けない日本の大学での勉学」「病気治療」など。

さて、「法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる」(朝日新聞84年3月7日「検証」)。生野区およびその周辺で育った在日朝鮮人の記憶にはなんらかの形で<ドンブリ組>の存在が影絵のようにゆらいでいるはずだ。ここではいくつかの記憶を発掘してみたい。(後略、密航者の来日動機や生活の実態が4例記されている)

外国人登録証を所持している<トロク組>といえども不正な手段で入手した密入国者もいる。以下、佐藤勝己著「在日韓国・朝鮮人に問う」1991年亜紀書房発行から 『ゆうれい登録証が大量に存在し、ある時期、対馬に登録証の製造工場があったといわれている… 敗戦直後日本から帰国した朝鮮人が再度日本に手続きなしで入国、それらの人に登録証が裏で売買された』
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Link 朝鮮新報 / やさしい法律相談 Q&A
『本名、本籍や本当の生年月日が外国人登録と異なることが在日同胞の場合、多々あります』 『実は私も朝鮮学校に通っていた時代には「尹(ユン)」という氏を使用していました。戦後、父が密航で日本にやってきて、他人の外国人登録を買ったためでした。そのため、親族と会うときは「洪(ホン)」の氏を使用し、学校では「尹」の氏を使用しました』

朝鮮人の密航は戦後始まったのではなく、内地への渡航制限をしていた戦前からあったのだ。
「朝鮮人強制連行の記録」 朴慶植 1965年 未来社
1921―30年の渡航、帰還、居住人口は上表の通りである。(表省略)しかしこの数字以外に、渡航阻止制度のため証明書なしに、いわゆる「密航」したため送還された者が相当多い。1925年10月―1930年末に14万4839人の多きに上っている。


「密航」に関する当時の新聞記事の見出しのうち朝日新聞大阪版の一部を記します。
Link 亜細亜の歴史 戦前朝鮮人関係新聞記事見出し
『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15
『又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20
『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕
『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7
『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13
『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17
『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20
『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24
『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29
『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5
『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日 1926/5/20
『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日 1926/5/28
『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日 1926/8/14
『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日 1926/8/25
『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日 1926/10/6
『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日 1926/11/17
『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日 1927/3/3
『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日 1927/4/9
『密航鮮人/十余名捕る(田の浦海岸)』 大阪朝日 1927/4/20
『密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中』 大阪朝日 1927/5/15
『怪機船/密航鮮人の輸送を企つ』 大阪朝日 1927/5/18
<以下略>

大量密航の記事
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3

日本人に土地を奪われた朝鮮人農民が仕事を求めてやむなく渡日したという通説に反する記事
『密航鮮人逮捕/田地を売ってきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸(門司)』 門司新報 1937/3/11


Link 朝鮮近代史研究のページ データベース戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索

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韓国人の在日韓国人観


本国の韓国人が在日を見る目には厳しいものがある。
「韓国人が身勝手に見える理由」 中村欽哉 1996年 三交社
(灰色文字は管理人補足)
ある韓国作家の在日韓国人観を伝えておこう。
「わたしは今日まで自分が生きることで精一杯でした。とても在日僑胞のことまで考えることかできませんでした。これが韓国の現実だと思います。しかし、在日韓国人は、総聯(在日本朝鮮人総聯合会)がいやなら民団(在日本大韓民国居留民国)、民団がいやなら中立、それがいやならカネもうけと自由に動いている。北であれ南であれ、本国にいる人にそんな自由はなかった。私たちがこういう人たちを信用できるでしょうか」。

次に在日韓国人が攻撃されるのは、出身身分だ。韓国人によれば「朝鮮半島で食いつめて、裸同然で日本に行かなければならなかった、"キオッ(ハングルでKの音)の字も知らない"(いろはのいも知らないに相当する)ような連中」とか、「朝鮮半島の南端の慶尚南道、全羅南道にいた貧農」が、在日韓国人になったのだという。朝鮮半島で食いつめた、無学で無教養の貧乏人が、なんとか食いつなごうと日本に渡って、それが在日韓国人の大半だというのである。在日韓国人そのものをハナから蔑視しているのである。韓国人が在日韓国人を非難するときには、「強制連行」した悪夢のような日帝の存在も忘れてしまうらしい。さらに「食いつめ」者にした犯人である日帝による「土地搾取」も非難されない。しかし、在日韓国人は韓国でそうはいわれながらも、日本にたいしては、「日帝によって、軍人として、また軍需工場や軍事施設現場の労働者として、朝鮮半島から強制的に犯罪者のように連行された人と、その二世、三世である」と説明している。

日本人よりずっと品がない

その「貧農」で「食いつめ」た「キオッの字も知らない」連中が、日本の経済復興とともにお金を稼ぎ、故国を訪問しだしたのである。韓国人には、「パチンコ屋や食い物屋(社会的評価が低い)のような商売をして、金をつくり、それを見せびらかさんばかり、昔の恨みをはらすかのように使いまくる」ように見えたのであり、じっさいに在日韓国人が、「団体旅行で、凱旋するかのように祖国へきて、礼ビラを切り、女は買うわ(キーセン観光か)、バクチはするわ」したのである。在日韓国人は「日本人よりずっと品がない」と思われたのである。「パチンコ屋や食い物屋のような商売」を例にだすことで職業差別もしている。

しかも、「韓国国籍をもちながら祖国存亡の6・25動乱(朝鮮戦争)のとき、だれひとり馳せ参ずるものはなかった。だれひとりだよ。のみならず、日本に動乱ブーム(朝鮮戦争の特需景気)がおこり、君らはわれわれの犠牲のかげで巨利を博した。そして、母国に遊びにきては、これ見よがしに札ビラを切る。生命をはって祖国を守り、貧苦に耐えてきた同胞の目の前でだ。判るかね、君たち僑胞にたいするわれわれの気持ちが」と、韓国人が語っているように、朝鮮戦争で苦境におちいっていたとき、在日韓国人は、戦争に参加することなく、お金もうけにいそしんでいたと、考えてるのである。

朝鮮戦争のとき、在日韓国人は本当に、誰一人として駆けつけなかったのであろうか。駆けつけたという証言を紹介しておこう。
「大学生の時に、韓国で動乱が始まったわけです。朝鮮戦争と日本でいわれていますね。それで私は、韓国軍に志願兵として半島にわたったんですよ。在日僑胞志願兵として、最初の第一陣の百三十七名の一人だったんです。結局、日本からは六百人くらい志願でいったんですね。戦死したり、行方不明になったのが三分の一、日本にまた戻ったのが三分の一ですね。この手はその動乱の時に指をとばされたんですよ。名誉の負傷というやつですよ」。
しかし、事実かどうかの問題ではない。在日韓国人は「母国の苦しみをネタに金をもうけた」と多くの韓国人は思い込んでいる。
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貧しかった渡日朝鮮人
1925年、山口県警察部特別高等課が関釜連絡船を利用して日本に上陸した朝鮮人労働者の所持金を調査したところ5円未満の所持金しかない者が、実に66.6パーセントであった。5円未満とは、関釜連絡船の往復運賃にも満たない金額である。さらにこの調査では、なんと無一文の渡航者が7.6パーセントもいたのである。日本語も満足に話せずお金も一銭もない貧乏な朝鮮人が、日本へ出稼ぎにやって来ていたのである。1926年、朝鮮慶尚道警察部が日本に出稼ぎに出た朝鮮人労働者の調査をしているが、男性労働者の1日の日給は平均して1円40銭であった。 (「関釜連絡船 -海峡を渡った朝鮮人-」1988年 金賛汀 朝日選書から要約)

文盲が多かった渡日朝鮮人
『…生活水準がそういう状態ですから、当時の朝鮮では、子供を学校に行かせるというのは大変なことだったのです。 …ですから在日朝鮮人の一世たちは、ほぼ7〜8割が文盲です。そいう状況ですから、植民地時代を生きた朝鮮人の貧困が、無教育、非衛生、道徳的堕落というものと深くつながっているのです。日本人からみると、朝鮮人は「民度」が低いことになり、民族差別の一つの原因となるわけです。なんとなく薄汚くて、貧しくて… おのずから差別につながっていくわけです』 (「日本による朝鮮支配の40年」 1992年 姜在彦 朝日文庫)


祖国が存亡の危機にあった朝鮮戦争を傍観し平和な日本で生活していたことが、在日の本国人に対するコンプレックスになっているようだ。在日が本国で蔑まれても彼らに頭が上がらない理由が分る話である。また彼らが日本に居住している言い訳を、戦時中の強制連行や韓国併合後の土地調査事業で農地を追い出されて仕事を求めてやむなく日本に渡ってきたと、自らの意思によるものではなく半ば強制されたものであるとする他律的な来歴に執拗にこだわるのは、このことも大いに関係しているのだろう。それにしても、この韓国人と下記の日本人裁判官の在日に対する認識の違いには驚くばかり。



在日と強制連行に関する最高裁判所判事・園部逸夫氏の歴史認識です。
"大岡裁き"を気取っているのでしょうか? 冷徹に国益を考えてもらいたいものです。
産経新聞 平成12年9月22日
永住外国人の地方参政権問題で、『立法措置を講ずれば憲法に違反しない』とする平成7年2月の最高裁判決にかかわった前最高裁判事は、ある新聞に次のような回想録を寄せている。

『在日の人達の中には、戦争中に強制連行され、帰りたくとも帰れない人が大勢いる。「帰化すればいい」という人もいるが、無理矢理日本に連れてこられた人達には厳しい言葉である』

判決の中のこの部分は傍論であり、判例拘束性はないが、こうした歴史認識から導き出されたとしたら、それは間違っていると言わざるを得ない。


反日プロパガンダが最高裁判所にまで浸透しているのか、それともただの無知なのか。いずれにせよ司法の由々しき事態だ。

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